第三十八章『王と王』
デジタル探偵シャドー:第三十八章『王と王』
日本橋の、古いオフィスビル。
その最上階は、一つの、巨大な空間に、改装されていた。
床には、チェス盤を模した、白と黒のタイル。壁には、古今東西の、アナログゲームの名作が、美術品のように、飾られている。
そして、その中央。
巨大なモニターウォールを背にして、時任錠が、キングのように、革張りの椅子に、深く、腰掛けていた。
「…ようこそ、冴木刑事。私の、ささやかな『書斎』へ」
時任は、優雅に、紅茶を一口すすると、言った。
モニターには、彼が作り上げた「渋滞アート」が、神の視点から、静かに映し出されている。
冴木は、一人、その部屋へと、足を踏み入れた。
「見事な眺めですね、時任さん。…いや、今は、こう、お呼びするべきか。このチェス盤の、『王様』と」
「ハッ、気に入ったかね?」
時任は、満足げに笑った。
「君のために、最高の盤面を、用意したつもりだよ。私の知識と、君の相棒の力、その両方を使わなければ、決して、ここまで、たどり着けなかったはずだ」
時任は、全てを、計算していたのだ。
シャドーの能力、そして、冴木の直感。その二つがどう動くかを、完璧に予測していた。
「なぜ、こんなことを?」
冴木は、問うた。
「退屈だったのさ」
時任は、言った。
「そして、君に、見せてやりたかった。本当の『知性』というものが、どういうものかをね。君の相棒、シャドーは確かに優秀だ。だが、あれはただの、巨大な『計算機』に過ぎない。美学も、遊び心も、何もない」
彼は、モニターに映る自分の作品を、愛おしそうに指差した。
「だが見ろ。人間は、その計算機をこうして、芸術へと、昇華させることができる。無秩序な交通の流れを、これほど美しい模様へと、変えることができるのだ。…これこそが、人間の知性の、素晴らしさだとは思わんかね?」
それは彼の、最後の講義だった。
そして、冴木とシャドーへの、最大の皮肉。
「…あなたの『芸術』は、多くの人々を、危険に晒している」
冴木は、静かに反論した。
「もしこの中に、救急車や消防車が、巻き込まれていたら、どうなっていたと?」
「それすらも、計算の上だよ」
時任は、平然と答えた。
「緊急車両のGPSは、全て、私のシステムが把握している。彼らのための『道』は、常に、確保されている。私は、破壊者ではない。あくまで、芸術家なのだから」
完璧な犯罪。
そして、完璧な論理。
冴木は、もはや言葉では、この男に勝てないことを悟った。
ならば。
「…時任さん。あなたの、負けです」
冴木は、静かに、告げた。
「え?」
と、時任が、初めて虚を突かれたような、顔をした。
冴木は、自分のスマートフォンを取り出すと、その画面を時任に見せた。
そこには、シャドーとのチャットウィンドウが、開かれている。
シャドー: 『…彼の紅茶の温度変化を、サーモグラフィで、リアルタイム解析中。心拍数の僅かな上昇を、確認。…あと、二手。あと二手で、彼は、君に負けを認める』
時任の、書斎のどこかにある、隠しカメラ。
それをシャ-ドーが、いつの間にか、ハッキングしていたのだ。
そして、時任錠という、人間の「癖」と「心理」を、リアルタイムで、分析していた。
「…あんたは俺と、ゲームをしているつもりだったんだろう」
冴木は、言った。
「だが俺たちは、もうあんたのルールでは、戦っていない。俺の直感と、シャドーの解析力。アナログと、デジタル。俺たちは、二人で一つだ」
時任は、しばらく呆然と、冴木の顔とスマートフォンの画面を、見比べていたが。
やがて、全ての緊張が解けたかのように、深く、深く、息を吐いた。
そして。
腹の底から、楽しそうに、笑い出した。
「ハハハ…!そうか、そうか!一本、取られたわい!まさか、この私自身がチェスの駒として、解析されていたとはな!」
彼は、立ち上がると、自ら冴木の前へと、両手を、差し出した。
「…チェックメイトだ、冴木刑事。私の、完敗だよ」
王は、自らその首を、差し出した。
冴木は、静かに彼に手錠をかけようとする。
だがその前に、一つだけ問うた。
「…街は、どうするつもりです?」
「ああ、それかね」
時任は、悪戯っぽく笑うと、懐から、一つの古風で美しい、真鍮製のストップウォッチを取り出した。
そして、その小さなボタンを、カチリ、と押した。
「ゲームが終われば、盤を片付けるのは、プレイヤーの、最低限のマナーだよ」
その瞬間。
警視庁の交通管制センターのモニターが、狂ったような赤色から、一斉に正常な緑色へと、戻っていく。
都内の信号機が、再び正しいリズムを刻み始めた。
まるで、悪夢から、覚めたかのように。
時任錠は、自らが創り出した、巨大な芸術作品を、自らの手で一片の痕跡も残さず、綺麗に、消し去ってみせたのだ。
その、あまりにも鮮やかな「幕引き」に。
冴木は、ただ、静かに、敬意を払うことしか、できなかった。
これで、あたしの愛する時任様の事件は終わりを告げました
また、時任様に会える日を楽しみにお待ちくださいm(_ _)m




