第三十六章『都市のチェス盤』
デジタル探偵シャドー:第三十六章『都市のチェス盤』
2025年7月23日、水曜日、午前8時45分。
東京の朝の通勤ラッシュが、ピークを迎えようとしていた、その時だった。
警視庁・交通管制センターの、巨大なウォールモニターが、突如として赤一色に染まった。
「なんだ!?」
「中央区の全信号機が、制御不能!」
「ダメです、こちらからの手動操作を、一切受け付けません!」
オペレーターたちの、悲鳴のような声が飛び交う。
東京の中心部、千代田区、中央区、港区の、主要な交差点の信号機が、全て、ハッキングされたのだ。
地上では、大混乱が始まっていた。信号は赤のまま変わらず、車は行き場を失い、クラクションの不協和音が、街を埋め尽くす。
誰もが、大規模な交通麻痺を、覚悟した。
だが数分後。人々はその異変が、単なるパニックではないことに、気づき始める。
信号機は、ただ赤になっているのではない。いくつかの信号は、まるで、オーケストラの指揮者のように、複雑なタイミングで、青に変わる。その不可解な命令に導かれ、車はまるで、意思を持った鉄の群れのように、ゆっくりと奇妙な軌道を描き始めたのだ。
その頃、警視庁の冴木は、シャドーからの報告を、受けていた。
シャドー: 『都内交通管制システムへの、不正アクセスを確認。発信源は、特定不能。時任錠の、犯行と見て間違いありません』
冴木:「…わかっている」
冴木は、シャドーに、新たな指令を出す。
冴木:「シャドー、上空からの、衛星画像に切り替えろ。今の、東京の『顔』を見せてくれ」
モニターに、雲一つない東京の上空からの映像が、映し出される。
そして冴木は、息を呑んだ。
そこにあったのは、交通渋滞などという、ありふれた光景ではなかった。
東京の、碁盤の目のような道路の上に、車という絵の具を使って、巨大な「絵」が、描かれていたのだ。
皇居前の広大な交差点には、車が美しい「螺旋」を描いている。
銀座の中央通りでは、高級車だけが選別され、将棋の「王将」の駒の形に、並べられている。
日本橋の上では、トラックやバスが、まるで川の流れのように、緩やかなカーブを描いて、静止していた。
それは、都市という巨大なキャンバスに描かれた、前代未聞のランドアート。
時任錠による美しく、そして、不気味な芸術作品だった。
「…これがあんたの、最初の『一手』か。時任さん」
冴木は、モニターに映る、美しすぎる渋滞を、ただ見つめていた。
これは、テロではない。破壊も要求も何もない。
ただ静かな、しかし、絶対的な「力の誇示」。
俺は、この都市の血流すら、意のままに操ることができるのだ、と。
この、巨大なチェス盤の上で、王はこの私なのだ、と。
時任錠の、最後のゲームが、始まった。
その目的は?
そして彼の、次の一手は、一体どこに指されるのか。
冴木は、ただ静かに、思考を巡らせる。
この、美しすぎる盤面を、どうすれば崩せるのか。
そして、相手の「王」に、どうすればチェックメイトを、告げることができるのか、と。




