第三十五章『チェックメイト・ゲーム』
ついに盤上へ王が帰還する。東京という、巨大なチェス盤の上で、冴木とシャドーの、最凶のゲームが始まる。
デジタル探偵シャドー:第三十五章『チェックメイト・ゲーム』
2025年7月23日、水曜日、午前8時12分。
警視庁の、冴木のデスクにあるモニターが、一つのニュース速報を、ポップアップで表示した。
それは、他のどの凶悪事件よりも、冴木の神経を、鋭く逆撫でするものだった。
【速報:『渋谷銅像盗難事件』の主犯、時任錠受刑者(78)、本日、医療刑務所から仮釈放】
「…ついに、出てきたか」
冴木は、その短い一文を、静かに睨みつけた。
模範囚として刑期を短縮された、という表向きの理由。
だが、冴木にはわかっていた。あの老人が、ただおとなしく、チェス盤を眺めていただけのはずがない、と。
彼は、シャドーへと、アクセスした。
冴木: 『時任錠が、本日仮釈放された。彼の、これまでの、獄中での全ての記録を再検証しろ。面会記録、手紙のやり取り、購入した書籍のリスト…何か、僅かでも不審な点はないか』
シャドー: 『…了解。再検証を開始します』
シャドーが、過去のデータを洗い直していく。
その間冴木は、これまでの事件を、反芻していた。
贋作師、雨宮静弦。彼を獄中から、手紙一つで操ってみせた、あの悪魔的な手腕。
あれは、時任錠にとって、ただの肩慣らしに過ぎなかったのかもしれない。
数分後。シャドーが、応答した。
シャドー: 『…記録上、不審な点は、見当たりません。彼は、まさしく「模範囚」として、静かな日々を送っていたようです。ただ一点だけ、気になるデータが』
冴木: 『なんだ?』
シャドー: 『彼が、この数ヶ月、刑務所内で熱心に、ある一つの分野について、学習していた記録があります』
冴木: 『…何の分野だ?』
シャドー: 『「都市工学」。及び、「最新の交通管制システム」についてです』
都市工学と交通管制システム。
アナログを愛する、あの男が?
その、あまりにも不釣り合いな組み合わせに、冴木の直感が、最大級の警報を鳴らした。
その頃。
医療刑務所のゲートから、一人の老人が、ゆっくりと姿を現した。
迎えの車も、誰もいない。ただ一人。
時任錠は、数ヶ月ぶりに外の光を浴び、眩しそうに、僅かに目を細めた。
そして彼は、まるでそこにいるのが、わかっているかのように、近くの電柱に設置された、監視カメラへと、その視線を、す、と向けた。
その瞬間。
警視庁で、モニターを見ていた冴木は、息を呑んだ。
時任が、監視カメラのレンズを通して、まっすぐに、自分を見ている。
そして、その口元は確かに、あの全てを見透かしたような、不敵な笑みを浮かべていた。
それは、宣戦告告だった。
日本という、巨大なチェス盤の上で。
時任錠という、最強のプレイヤーが、今、最初の、一手を指したのだ。
『チェックメイトまで、あと、何手かな?冴木刑事』
声は、聞こえない。
だがその目は、確かにそう、語っていた。




