第三十三章『鳴らないピアノ』
デジタル探偵シャドー:第三十三章『鳴らないピアノ』
夕暮れの蒼葉学院。
冴木は、旧校舎の廊下を、一人歩いていた。放課後の喧騒は、もうない。ただ、彼の革靴の音だけが、古い木の床に、静かに響いていた。
音楽室の鍵を、用務員から無言で受け取る。扉を開けると、埃と、微かなカビの匂いがした。部屋の真ん中には、白い布を被った一台のグランドピアノ。窓から差し込む最後の西日が、白い布を淡いオレンジ色に染めている。
冴木は、ピアノに近づき、そっと布をめくった。
黒く、艶のある美しいピアノだった。鍵盤は、黄ばみ、いくつかの黒鍵には、細かな傷がついている。まるで幾千回、幾万回と、情熱的に弾かれたその記憶を、刻み込んでいるかのようだった。
彼は、部屋の隅々まで、慎重に調べた。隠しスピーカー、タイマー式の再生装置…。だが、そんな無粋な仕掛けは、どこにも見当たらない。
(…やはり、このピアノ自体が、鳴っているのか)
その時、冴木のスマートフォンが、静かに震えた。シャドーからの、第一報だった。
シャドー: 『音響指紋の照合完了。ネット上の音源は、紛れもなく今、あなたの目の前にある、そのグランドピアノから発せられたものです。録音された音の反響パターンが、この音楽室の壁や、天井の構造と99.9%一致します』
冴木の直感は、データによって裏付けられた。
続けて、第二報が表示される。
シャドー: 『楽曲データベースとの照合完了。該当する楽曲は、存在しません。この「ゴースト・ソナタ」は、完全にオリジナルの楽曲です』
トリックではない。そして、既存の曲でもない。
ならば、残る謎はただ一つ。
「誰が、この曲を作り、そして今も弾き続けているのか」
冴木は、シャドーに新たな指令を送った。
冴木: 『作曲者を追う。この学校の、過去の在校生、及び、教職員のデータを洗え。ピアノコンクールでの受賞歴、音楽大学への進学者、あるいは、個人的に作曲活動をしていた人物がいないか。特に、このメロディの「指紋」…作曲スタイルが、類似する人物を探せ』
シャドー: 『…了解。対象を、蒼葉学院の全関係者に拡大。音楽的才能に関する、記録を検索します』
沈黙。
冴木は、ただ静かにピアノの前に、佇んでいた。
その時、シャドーからの、応答が届いた。
シャドー: 『…候補者を、一名発見。
氏名:望月 奏
10年前に在籍していた、ピアノ科の特待生。数々のコンクールを総なめにした、天才少女。
しかし…彼女は、卒業を目前にした冬、交通事故で、亡くなっています』
亡くなっている…。
では彼女ではない、というのか?
いや、と冴木は首を振った。彼の直感が、告げている。答えは、彼女しかいない、と。
その、冴木の思考を、裏付けるかのように。
シャドーから、最後の一文が送られてきた。
シャドー: 『特記事項:彼女は卒業制作として、「AIを用いた、感情を奏でる自動作曲プログラム」の研究論文を、提出していました。論文のタイトルは…』
『デジタル・ゴースト』




