第三十章『デジタルの足跡、アナログの心』
デジタル探偵シャドー:第三十章『デジタルの足跡、アナログの心』
警視庁の対策本部が、犯人の特定に至らないまま、時間だけが過ぎていく。その間、冴木のPCには、シャドーからの分析レポートが淡々と、しかし、着実に送り続けられていた。
シャドー: 『マルウェアの構造を特定。自己増殖し、痕跡を消しながら、決済ネットワークの脆弱性を突く、極めて高度なものです。しかし、そのコードの端々に、特定のプログラミング言語の古い方言が使用されています。これは、書き手の「癖」です』
シャドー: 『攻撃の発信源を特定。単一のサーバーからではなく、都内各地の旧式のIoT機器を踏み台にした、分散型攻撃(DDoS)です。興味深いのは、その踏み台の多くが、古くからの個人商店や、小さな町工場に設置された、セキュリティの甘い機器である点です』
犯人は、自らが「守るべき」だと主張する、弱者たちの盾を、自らの攻撃のために利用していたのだ。
冴木は、シャドーが割り出した、踏み台が集中しているエリアの地図を眺めていた。それは、再開発から取り残された、古い商店街が点在する、東京の下町だった。
一方冴木自身も、この数日間、PCの前にはいなかった。
彼は、その下町の商店街を、ただひたすらに歩き回っていたのだ。シャッターが下りた店の前で溜息をつく老人、数少ない常連客と、世間話に花を咲かせる店主。彼は、刑事としてではなく、ただの通行人として、その光景を、空気を、肌で感じていた。
犯人が「思い出せ」と叫んだ、「人の温もり」。
その正体を、探るために。
そして、シャドーからの報告が、冴木のスマートフォンに届いた。
シャドー: 『コードの「癖」から、ハッカーを一人に絞り込みました。22歳の大学生。過激な反資本主義思想を持つ、腕利きのクラッカーです。彼の自宅は、杉並区の、現在冴木さんがいる商店街の、すぐ近くです』
データは出揃った。
普通の刑事なら、すぐに、その大学生の自宅へ、踏み込むだろう。
だが、冴木は動かなかった。
彼の直感が、まだGOサインを出さない。
(…違う。あの大学生は、「実行犯」に過ぎない。彼に、こんな、哀しいメッセージは書けない)
冴木は、商店街にある、一軒の古い喫茶店に入った。店主の老夫婦が、温かい笑顔で、彼を迎える。壁には、この商店街の昔の写真が、何枚も飾られていた。活気に満ちた人々の笑顔。
その写真の中心で、誰よりも誇らしげに笑っている、一人の男がいた。
「…マスター、この人は?」
「ああ、この人は、門倉さんだよ」
と、マスターは、懐かしそうに目を細めた。
「この商店街の、組合長を、ずっとやってくれてたんだ。誰よりもこの街を、人を愛してた人だったけどねぇ…。3年前に、奥さんを亡くしてから、すっかり元気がなくなっちゃって…」
その時、喫茶店のドアが、カラン、と鳴った。
入ってきたのは、写真で見たあの男。門倉だった。
彼は、冴木の姿を一瞥すると、いつもの席らしき、カウンターの端に、静かに腰を下ろした。
冴木には、全てがわかった。
シャドーが特定した、天才ハッカーの若者。彼が、この商店街の近くに住んでいるのは、偶然ではない。
彼は、門倉という、カリスマ的な老人に出会い、その「哀しみ」と「怒り」に、心酔したのだ。
そして、自らの「技術」を、門倉の「心」のために、捧げた。
マルウェアを仕掛けたのは、若者だ。
だが、「人の温もりを、思い出せ」という、あのメッセージを書いたのは。
この、目の前で寂しそうに、コーヒーを啜っている、老人だ。
冴木は、静かに席を立った。
そして、門倉の隣の席に、腰を下ろした。
「…いい商店街ですね」
その一言がこの事件の、本当の「始まり」だった。




