第三章「盤上の共犯者」
デジタル探偵シャドー:第三章「盤上の共犯者」
「時任さん。あなたの古いゲームの最高得点記録保持者…ハイスコアラーの名前は、確か…」
冴木の言葉が、静かな書斎の空気を切り裂いた。時任錠の顔から血の気が引き、その手の中でティーカップがカタリと音を立てる。それは、長年保ってきたポーカーフェイスが初めて崩れた瞬間だった。
冴木の脳裏では、シャドーが残したノイズ と、目の前の雑誌が結びついていた。
ノイズは、引用文献『1』。
雑誌の特集記事の参考文献リストの1番目には、一つの論文が記されていた。
『重量物の無人運搬におけるテコの原理の応用 / 著者:斎藤 一』。
そして、その雑誌の別のページには、時任が設計した伝説的パズルゲームの全国スコアランキングが掲載されている。輝かしい1位の座に君臨するハイスコアラーの名前もまた、『斎藤 一』。
「斎藤一。あなたの熱狂的な信奉者であり、あなたの頭脳を現実世界で再現できる、唯一無二の共犯者。違いますか?」
時任は、観念したように深く息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。
「…刑事さん。君は、一体何者だね?」
その問いには答えず、冴木は続けた。
「銅像の盗難トリックも見えました。犯行予告の『最も美しい音』。あれは、ノイズによる聴覚への攻撃であると同時に、『音を盗む』、つまり『音を消す』という宣言だったんですね」
冴木が語り始めたトリックは、デジタル時代の盲点を突く、あまりにも大胆かつアナログなものだった。
斎藤一は、大学で物理工学を研究する傍ら、趣味で特殊な装置を開発していた。それは、『指向性音響無効化装置』。特定のエリアの音を、逆位相の音波をぶつけることでピンポイントに消し去る技術だ。
事件当日、時任の協力者たちは、交差点周辺のビルの屋上数カ所にその装置を設置。彼らが狙ったのは、銅像の真下。
予告の時間、交差点のスピーカーから流れたのは、単なるノイズではない。銅像の台座を大型ドリルで破壊する「工事の音」を完璧にマスキングするための、計算され尽くしたカバー音だったのだ。
人々がデジタルの混乱と聴覚のパニック(ノイズ)に気を取られている間に、銅像の真下の地面には大穴が空けられていた。そして、銅像はテコの原理を応用した滑車で吊り上げられ、地下に待機していたトラックの荷台へと静かに下ろされた。地下道を使えば、誰にも気づかれずに運び去ることができる。
「…素晴らしい。実に、アナログで美しい芸術的な犯行だ」
冴木は、まるで好きなパズルが解けた子供のように、純粋な感嘆の声を漏らした。
「ですが、時任さん。あなたは一つだけミスを犯した。あなたは、その美学に酔いしれるあまり、挑戦状にあなた自身が愛用する特別な万年筆を使ってしまった。あなたの魂の署名とも言えるそのインクが、デジタルの海に浮かぶ『シャドー』の目に留まったんです」
時任は静かに立ち上がり、書斎の奥にある隠し扉を開けた。その先には、ライトアップされた銅像が鎮座していた。本来あるべき場所から切り離され、この薄暗い空間に佇む姿は、どこか寂しげに見えた。
「私は、ただ…守りたかっただけなのだよ」
時任は呟いた。
「デジタルに汚され、本来の価値を忘れ去られていく美しいものたちを。私のゲームも、この銅像も、時代という奔流の中で、ただ静かに朽ちていくのが我慢ならなかった…」
彼の声には、深い哀愁が漂っていた。
こうして、「最も美しい音を盗んだ」事件は解決した。共犯者の斎藤一も、時任の説得に応じて素直に出頭したという。
数日後、警視庁の屋上で煙草をふかしながら、冴木は自分のスマートフォンの画面を眺めていた。そこには、シャドーとのチャット履歴が残っている。そして、あの奇妙なノイズ。
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シャドーは「意味のないデータ」だと言った。だが、結果的にこのノイズが、冴木の直感の引き金となり、事件解決の最後のピースとなった。
あれは本当に、ただの偶然だったのか?
それとも、デジタルの海の深淵に潜む「シャドー」という名の集合知性が、冴木閃という特異な受信者に向けて放った、意識下のメッセージだったのか?
冴木は煙を吐き出し、空を見上げた。
まだ、誰も答えを知らない。
物語は、まだ始まったばかりである。