第二十八章『金色の鎮魂歌』
デジタル探偵シャドー:第二十八章『金色の鎮魂歌』
山梨県の山間に佇む廃校。
夕暮れの赤い光が、割れた窓ガラスを照らし、校庭の夏草を、長く伸ばしている。
冴木は、その木造校舎の前に一人、静かに立っていた。蝉の声だけが、まるで過ぎ去った日々の幻聴のように、耳に響いていた。
彼は、ギィ、と音を立てる玄関を開け、中へと足を踏み入れる。埃と、油絵の具の匂いが混じり合った、独特の空気。冴木は、その匂いを頼りに、校舎の奥、体育館だったと思われる、だだっ広い空間へと、歩を進めた。
そこで、彼は息を呑んだ。
空間の中央に、一枚の巨大なキャンバスが立てかけられていた。
夕陽を受けて、その絵は自らが光を放っているかのように、黄金に輝いていた。
描かれているのは、夜が明け、東の空が、金色に染まっていく瞬間。その光を浴びて、木々も、大地も、雲も、全てが、生命の喜びに満ち溢れている。
焼失したはずの、黒田清輝の幻の傑作『金色の夜明け』。
そして、その絵の前で一人の男が、イーゼルに向かっていた。
雨宮静弦だった。
彼は、冴木の存在に気づいていたはずなのに、振り返りもしない。ただ、全神経を絵筆の先に、集中させていた。
冴木は何も言わず、その創作の最後の瞬間を、静かに見守っていた。
まるで、神聖な儀式に立ち会っているかのように。
やがて雨宮は、ふ、と息を吐くと、最後のたった一筆を、キャンバスに置いた。
それは、夜明けの光の中に、飛び立っていく、一羽の鳥の、小さな翼だった。
「……終わった」
雨宮は呟くと、絵筆を床に置いた。そして、ゆっくりと、冴木の方へと振り返る。
その顔に、驚きや、恐怖の色はなかった。
ただ、全てを終えた者の、深い、深い、安堵だけがあった。
「間に合って、良かった」
と、雨宮は言った。
「君にだけは、この絵の最後の瞬間を、見てほしかった」
「…見事な絵だ」
冴木は、心の底から、そう言った。
「ありがとう」
雨宮は少しだけ、嬉しそうに笑った。
「私は、ただ師の見たかった、この夜明けの景色をもう一度、この世に、生み出してやりたかっただけなんだ。その為なら、悪魔に魂を売っても、惜しくはなかった」
彼は、自らの両腕を静かに、冴木の前へと差し出した。
「さあ、連れて行ってくれ、刑事さん。私の芸術はもう、完成したのだから」
逮捕に、抵抗はなかった。
雨宮静弦はまるで、長い旅を終えた巡礼者のように穏やかな顔で、パトカーへと乗り込んでいった。
一人、体育館に残された冴木は、もう一度、完成した『金色の夜明け』を見つめた。
それは、犯罪によって生まれた、決して世に出ることのない、幻の傑作。
その輝きは、あまりにも美しく、そして、あまりにも哀しかった。
この絵の、ただ一人の鑑賞者として。
冴木は、その光景を自らの記憶に、深く、深く、焼き付けた。
事件は、幕を閉じた。
そして、時任錠が仕掛けた、静かなるチェスのゲームもまた、一つの駒を失ったのである。




