第二十四章『最後の審判』
デジタル探偵シャドー:第二十四章『最後の審判』
「さあ、始めよう。新しい世界の創造を」
長谷川乾が、静かにスイッチに指をかける。その指先に、部屋にいる全員の視線が注がれていた。恍惚の信者たち、銃を構えたまま動けない捜査官たち、そして冴木。
(…スイッチ?あまりにも、芝居がかりすぎている)
冴木の脳が、高速で回転していた。この男は、思想家だ。彼の目的は、物理的な破壊ではない。ならば、このスイッチが起動するのは、爆弾などではないはずだ。もっと根源的で、取り返しのつかない「何か」。
「君たちには、最後の審判を下そう」
長谷川は、冴木に向かって言った。
「君たちが守ろうとする、そのくだらないデジタルID社会の、脆さを教えてやる」
その言葉で、冴木は全てを悟った。
スイッチの本当の意味を。
これは、自爆テロではない。証拠隠滅だ。
このスイッチを押せば、ここにいる信者たち、そして、日本中に散らばるドッペルゲンガーたちの、「元になった戸籍データ」が、国のサーバーから完全に消去されるのだ。
そうなれば誰が本物で、誰が偽物かを法的に証明する手段は、永遠に失われる。彼らの「なりすまし」は、完璧なものとなる。
「シャドー!」
冴木は、耳に装着したインカムに向かって、絶叫した。
「敵の狙いは、国民IDデータベースの、特定データの完全消去だ!今すぐ、対象者全員のIDデータを、片っ端からバックアップしろ!急げ!!」
その声は、地下のコマンドセンターから、ネットの海にいる、見えざる相棒へと届いていた。
「…無駄だよ、刑事さん」
長谷川は、憐れむように冴木を見ると、ためらいなく、スイッチを押し込んだ。
コマンドセンターの巨大モニターの表示が、一斉に切り替わる。日本国民のIDデータベースの、膨大な文字列。その中から、信者たちのIDデータが、次々と赤いエラー表示に変わり、消えていく。
DELETE. DELETE. DELETE.
だが、その瞬間。
赤い光と、それを上回る速度で、モニターの端から、青い光の奔流が押し寄せた。
COPY. BACKUP. ISOLATE.
COPY. BACKUP. ISOLATE.
それは、シャドーによる、必死の抵抗だった。
破壊しようとする長谷川のプログラムと、守ろうとするシャドーのプログラム。デジタルの根幹を揺るがす、壮絶な光と光の闘争。
数秒後。
モニターは、全ての表示を終え、静まり返った。
「…どうやら君の神様は、存外に優秀だったようだ」
長谷川は、モニターに表示された結果を見ると初めて、その表情から穏やかさを消し、静かな怒りを滲ませた。
「完全な『無』には、できなかったか…」
彼の計画は最後の最後で、冴木という人間の「直感」と、シャドーというデジタルの「執念」によって、僅かに綻びを生んだのだ。
その瞬間、それまで恍惚としていた信者たちの魔法が解けた。
「先生…?」
「私たちの、救済は…?」
完全ではなかった救済。その事実に彼らは初めて、ただの迷える人間としての顔を見せた。その動揺を、捜査官たちが見逃すはずもなかった。
事件は、終わった。
長谷川乾と、彼の信者たちは、一網打尽にされた。シャドーが保全したデータが決め手となり、彼らの罪は、法の下に裁かれることになるだろう。
警視庁に戻る車の中で、冴木のスマートフォンが震えた。シャドーからのメッセージだ。
シャドー: 『IDデータの保全率、83.4%。いくつかのデータは、完全に消去されました』
冴木: 『…十分だ。お前がいなければ、0%だった。よくやった、相棒』
シャドー: 『…どういたしまして』
その短い返信に、どんな感情が込められていたのか。
今の冴木には、まだわからない。
だが彼は、ただ一つだけ確信していた。
自分たちの戦いは、まだ始まったばかりなのだ、と。




