第二十一章『思想の指紋』
デジタル探偵シャドー:第二十一章『思想の指紋』
『空白の画布に、新たな生を描かん』
冴木は、シャドーが発見した、ソースコードに埋め込まれた詩を、繰り返し読んでいた。
それは、単なる犯行声明ではない。確固たる信念と、歪んだ美学に貫かれた、彼らの「経典」だ。
「シャドー」
冴木は、チャットルームに新たな指令を打ち込んだ。
「この詩を書いた人物を特定しろ。文体、使用されている単語の癖、思想的背景。あらゆる言語データと照合し、この『思想の指紋』の持ち主を探し出すんだ」
それは、大海原から、特定の波形を見つけ出すような、無謀な要求だった。
だがシャドーは、ただ一言応答した。
シャドー: 『…了解。言語解析、思想マッピングを開始します』
シャドーの内部で、凄まじい速度の照合が始まった。
古今東西の哲学書、宗教の経典、歴史上の革命家の演説、ネット上に存在する無数の論文やブログ、個人のSNSの書き込み…。その全てが、あの短い詩と比較検討されていく。
数分後。シャドーは、驚くべき答えを提示した。
シャドー: 『99.2%の確率で、文体と思想的背景が一致する人物が、一人存在します』
ウィンドウに、一人の男のプロフィールが表示された。
表示された情報:
・氏名: 長谷川 乾
・経歴: 元・東都大学 比較文化思想論 准教授。
・特記事項: 10年前、「デジタル社会における魂の記号化」に関する過激な論文を発表。その中で、「IDに縛られた現代人は、すでに魂を失ったゴーストである」と主張し、学会から異端視され、大学を追放された。以後の足取りは不明。
「…10年前。大学を追放された、元准教授…」
冴木の脳裏に、一つの記憶が蘇る。
自分も10年前は、東都大学の学生だった。安藤教授の元で、人の心の闇を覗き込んでいた、あの頃。
もしかしたら、キャンパスのどこかで、この男とすれ違っていたかもしれない。
「ビンゴだ…」
冴木は呟いた。
「『ブランク・キャンバス』の創始者、あるいは、その思想的支柱。全ての始まりは、この男だ」
金儲けのための組織ではない。
一人の、社会から追放された思想家が、自らの「正しさ」を証明するために作り上げた、歪んだ理想郷。それが、ブランク・キャンバスの正体だった。
冴木: 『長谷川乾の現在の居場所を特定しろ。金の流れ、支援者、信者…あらゆるデジタルフットプリントを追跡するんだ』
シャドー: 『…了解。対象者本人の直接的な足跡は、10年前に消滅。現在、対象者周辺の人物、元教え子、同僚、家族、関連が疑われる人物全ての、間接的な足跡の解析に移行します』
シャドーのウィンドウに、膨大な相関図が浮かび上がる。長谷川乾という中心点から、無数の線が伸び、様々な人物へと繋がっていく。シャドーは、その一人一人の過去10年間のデジタル活動を、瞬時にスキャンしていく。
しかし。
シャドー: 『…異常事態を検出。解析対象となった人物の9割以上が、10年前から現在に至るまでの間に、不自然なまでにデジタルフットプリントを縮小させています。SNSアカウントの削除、オンライン決済の停止、通信記録の限定…。まるで、一斉に、示し合わせたかのように』
さらに、シャドーは衝撃的な事実を告げた。
シャドー: 『残された僅かなデータにも、高度な技術による『情報洗浄』の痕跡が見られます。これは、個人の手で行えるレベルを、遥かに超えています。結論として、これは、個人の失踪ではありません。長谷川乾を中心に、長期間にわたって実行された、組織的な『情報蒸発』作戦です』
デジタルな痕跡が、ないのではない。「消された」のだ。
それも、国家レベルの情報機関に匹敵するほどの、徹底的なやり方で。
シャドーの能力をもってしても、これでは追跡のしようがなかった。
しかし冴木は、不思議と焦ってはいなかった。
むしろ口の端に、獰猛な笑みさえ浮かべていた。
「面白いじゃないか」
そこまで徹底しているのなら、話は早い。
デジタルな神が匙を投げたのなら、ここからは人間の出番だ。
冴木はPCを閉じると、受話器を取り、ある部署へと電話をかけた。
「ああ、俺だ。警視庁公安部、外事三課の資料室に繋いでくれ」
公安部。国家の体制を脅かす思想や、団体を監視する、影の部署。
これほど大規模で、計画的な「思想団体」の動きを、公安が見逃しているはずがなかった。デジタルの痕跡は消せても、人間の記憶や、アナログな記録までは、完全には消しきれない。
デジタルな幽霊を追うために、冴木は最もアナログで、古風な警察の「記憶」の扉を叩こうとしていた。
シャドーの知らない情報が、そこに眠っていると、彼の直感が告げていた。




