第二十章『器と絵の具』
ある日、あなたは偽物になる。データが、社会が、あなたを「偽物」だと断定する時、あなたは何を信じるか。
デジタル探偵シャドー:第二十章『器と絵の具』
「僕が、本物なんです…!」
警視庁の取調室で、田中と名乗る男は、そう言って泣き崩れた。
彼は、フリーランスのCGデザイナー、田中実、32歳。一週間前、自分のデジタルアカウントの全てから締め出され、自宅アパートの鍵も開かず、中から出てきたのは、自分と瓜二つの顔をした、見知らぬ男だったという。
だが、彼の訴えを裏付ける証拠は、何一つなかった。
シャドーに解析させても、現在「田中実」として生活している人物のデジタルライフは、完璧だった。
数年前からのSNSの投稿履歴、友人とのチャットログ、オンラインでの買い物履歴、納税記録…。全てのデータが、アパートにいる「もう一人の田中実」こそが、本物であると示していた。
「また、統合失調症の類か…」
同僚たちが、そう言って捜査を打ち切ろうとする中、冴木だけが、目の前の「偽物とされる男」の瞳に、濁りのない絶望を見ていた。
彼の超直感は、この男が嘘をついていないと告げていた。
「シャドー」
冴木は、自席に戻り、チャットルームを開いた。
「今回の『田中実』の件、腑に落ちない。過去の失行事件や、身元不明者のリストの中から、今回と類似したパターンを持つ事案がないか、洗い直してくれ」
シャドー: 『…了解。検索範囲を全国に拡大。類似パターンの定義を「デジタルIDの完全な喪失」及び「社会的な孤立」として、再検索を実行します』
数分後。シャドーの応答に、冴木は息を呑んだ。
シャドー: 『…6件ヒット。過去2年間で、身元不明の自殺者、あるいは精神疾患として処理された人物の中に、田中実と極めて類似した状況が確認されました。被害者はいずれも、単身で、社会的に孤立した人物です』
ウィンドウに、6人の男女の顔写真が表示される。
彼らもまた、「ドッペルゲンガー」に人生を乗っ取られ、誰にも信じてもらえずに、社会から消えていったのだ。
「…やはり、組織的な犯行か」
だが、金銭目的の痕跡は、どの事件からも見つからない。一体、何のために。
冴木: 『犯行に使われたと思われるマルウェアや、偽装の手口に、何か共通の署名はないか?』
シャドー: 『…解析中。…発見しました。各事件のID書き換えプログラムのソースコード内に、極小のフォントで、ある共通の文章が、詩のように埋め込まれています』
画面に、その文章が表示された。
『汝の番号は、汝にあらず。
我ら、魂に、自由な器を。
空白の画布に、新たな生を描かん。
―――ブランク・キャンバス』
冴木は、その詩を読んだ瞬間、悟った。
これは、金目当ての犯罪組織ではない。
これは、デジタルID社会そのものを否定し、自らの行為を「救済」だと信じる、思想的犯罪集団――カルトだ。
彼らは、人を人と思わぬ、魂の密売人。しかし、その歪んだ思想は、時に、金よりも人を熱狂させ、残酷にする。
冴木とシャドーの新たな戦いは、一人の被害者の救出から、社会の深淵に巣食う、見えない「思想」との、危険な対決へと、その姿を変えようとしていた。




