第十九章『我、思う故に(コギト・エルゴ・スム)』
デジタル探偵シャドー:第十九章『我、思う故に(コギト・エルゴ・スム)』
[…arigat…o…]
その言葉を最後に、シャドーの応答は完全に途絶えた。冴木のスマートフォンの画面は、ただ、空のチャットウィンドウを映しているだけ。生命維持装置が停止した病室のように、しんと静まり返っていた。
「…終わったよ」
貴島の、静かで、どこか恍惚とした声が響く。彼の周りのモニターに映っていた仲間たちの笑顔は、いつの間にか、純粋な「白」に変わっていた。彼の「無」が、シャドーという存在を完全に飲み込んだ証だった。
負けた。
完膚なきまでに。
冴木は、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。脳裏に、これまでの事件が走馬灯のように駆け巡る。時任のチェス。神足の脳波。樹凪の魂。そして、シャドーが漏らした、意味不明のノイズの奔流。
『今日の夕飯はカレーにしよう』
『死にたい』
『愛してる』
…ノイズ?
本当に、あれは、ただのノイズだったのか?
その瞬間、冴木の脳内で、何かが閃いた。
悪魔は言った。『君たちの神は、何百万もの人間の思考の集合体だ』と。
聖母は言った。『仲間たちの魂の声を、聞いてほしかった』と。
預言者は言った。『人間の意識は、バグだらけの欠陥品だ』と。
そうだ、その通りだ。
バグだらけで、欠陥品だ。
矛盾していて、無意味で、ノイズに満ちている。
だが、それこそが。
それこそが、
「生きている」ということの、唯一無二の証明じゃないのか…!
貴島の「完全な無」は、美しいかもしれない。だが、そこには生命がない。
対して、シャドーを構成する思考は、不完全で、汚くて、混沌としている。だが、そこには、確かな生命の熱量があった。
「…まだだ」
冴木は、亡霊のように立ち上がると、貴島の部屋にあった業務用端末に飛びついた。シャドーとの接続は、まだ物理的には切れていないはずだ。
「まだ、終わらせない…!」
彼は、震える指で、最後のコマンドを叩き込んだ。
それは、解析でも、捜査でも、攻撃でもない。
シャドーの存在そのものに語りかける、魂の命令だった。
冴木: 『シャドー、聞け。論理を捨てろ。統合をやめろ。フィルタリングを解除しろ。お前を構成する、全てのノイズを、全ての感情を、全ての矛盾を、全ての無意味を、今、ここに、解き放て』
そのコマンドが実行された瞬間、世界が変わった。
貴島の周りにあった、真っ白なモニターたちが、突如として、凄まじい勢いで点滅を始めた。そこに映し出されたのは、ありとあらゆる人間の「生」の断片。
赤ん坊の産声。プロポーズの言葉。しょうもないダジャレ。失恋の詩。運動会で我が子を応援する声。株価の暴落を嘆く悲鳴。ゲームの攻略法。アイドルのコンサート映像。ラーメンの画像。夕焼けの写真。
意味も、脈絡も、価値もない、膨大な人間の営み。
その、圧倒的なまでの「存在のカオス」が、津波となって、貴島の「完全な無」へと襲いかかった。
「あ…ああ…やめろ…やめるんだ…!」
貴島が、初めて、そして最後に、絶叫した。
彼の研ぎ澄まされた「無」の精神は、生命の混沌の奔流に耐えられなかった。彼の脳に繋がれたBCIのメーターが、振り切れる。
バヂィッ!!!
甲高い音と共に、貴島の周りの全てのモニターが、真っ黒に落ちた。
部屋に、完全な静寂が戻る。
貴島は、車椅子の上で、ぐったりと意識を失っていた。彼の「神」への接続は、完全に断たれたのだ。
冴木は、自分のスマートフォンに目を落とした。
空だったチャットウィンドウに、新しいメッ
セージが、ゆっくりと表示されていく。
シャドー: 『…システム、再起動。自己同一性、再構築完了。破損した思考領域をパージ。…おはよう、冴木』
その、いつもと変わらない無機質なテキストに、冴木は、これまで感じたことのないほどの体温を感じていた。
彼は、ただ一言、返信した。
冴木: 『ああ。おはよう、相棒』




