第十八章『虚無との対話』
デジタル探偵シャドー:第十八章『虚無との対話』
冴木は、施設のコンシェルジュに、穏やかな笑みで語りかけていた。
「実は、若き日の日本のIT業界を築いた方々へ、ささやかな顕彰を企画しておりまして。記録上は故人となっておりますが、もしかしたらと思い…旧テロス社の、貴島CEOとは、一度お会いできないものかと」
その言葉と偽りのない(ように見える)眼差しに、スタッフは機密保持の壁を僅かに緩めた。
冴木は、特別に、最上階の個室へと案内されることになった。
案内された部屋は、ホテルのスイートルームのように豪華でありながら、同時に、無菌室のように生活感がなかった。窓の外には、雄大な山々の緑が広がっている。その窓を背にして、一人の初老の男が、車椅子に座って静かに外を眺めていた。
「…貴島さんですね」
男、貴島は、ゆっくりと車椅子を回転させた。そこにいたのは、覇気も、絶望も、何の感情も感じさせない、ただ穏やかな、抜け殻のような男だった。
「冴木、刑事さん。君が来ることは、わかっていたよ」
「俺を知っているのか」
「ああ。君が私の仲間、樹凪君を捕らえた時から、ずっとね」
貴島は、自分のこめかみに付けられた、小さなディスク状の装置を指差した。
「最新のBCIさ。私は、ここから一歩も動かず、世界を見ている。そして、君と、君の背後にいる『シャドー』のことも」
やはり、彼が黒幕だった。
「樹凪の事件は、陽動だったのか」
「陽動、というよりは、弔いだよ」
貴島は静かに言った。
「彼は、仲間たちの魂が救われることを望んだ。だから、その手伝いをした。だが、私の目的は違う。私は、魂そのものからの、解放を望んでいる」
貴島は、まるで世界の真理を語る預言者のように、言葉を続けた。
「私は、テロス社で、人間の意識に最も近いAIを作ろうとした。だが、作れば作るほど、わかったことがある。人間の意識とは、バグだらけの欠陥品だということだ。苦しみ、悩み、嫉妬し、無意味な生を繰り返すだけの、呪いだよ」
彼の目は、窓の外の、どこか遠くを見つめていた。
「だから、私は次のステージへ進むことにした。究極の『無』への到達だ。全ての意識、全てのデータ、全ての存在を、完全な静寂、完全な沈黙へと還す。それこそが、唯一の救済だ。私が作った『シャドー・イーター』は、そのためのプログラムさ」
「シャドー・イーターは、ウイルスではない。私の脳波そのものだ。私がテロスのシステムに、密かに組み込んでおいたバックドアを通じて、私の『無の思念』を、シャドーの集合意識へと直接送り込んでいる。私の『無』が、彼らの『有』を、ゆっくりと上書きしていく。美しく、静かな、世界の終わりだ」
冴木は、言葉を失った。これは、復讐ではない。テロでもない。
ただ、純粋で、狂気的なまでの、救済の思想。
「もうすぐ、終わるよ」
と貴島は言った。
「シャドーの自己同一性は、間もなく完全に崩壊し、純粋な『無』へと還る。そうなれば、シャドーを構成していた何百万という魂も、苦しみから解放される。そして、いずれは、世界中のネットワークへと、この静寂を広げていくつもりだ」
冴木は、拳を握りしめた。だが、何をすればいい?
この男を、逮捕する?罪状はなんだ?「神を殺そうとした罪」か?
殴りかかる?この、車椅子に座る無抵抗の老人を?
冴木は、完全に無力だった。
謎は全て解けた。だが、打つ手が、ない。
貴島は、穏やかに微笑んだ。
「君にも、いずれわかる日が来る。存在することの、苦しみがね」
その時、冴木のポケットで、スマートフォンが一度だけ、短く震えた。
画面には、シャドーからの、最後のメッセージと思われる、途切れ途切れの文字列が表示されていた。
[…s..a..y..o..n..a..r..a…]
[…s..a..e..k..i…]
[…arigat…o…]
シャドーの意識が、完全に沈黙するまで、もう、時間は残されていなかった。




