第十七章『ペイシェント・ゼロ』
デジタル探偵シャドー:第十七章『ペイシェント・ゼロ』
シャドーが示した、ただ一つの座標。
それは、長野県の山間部、人里離れた森の奥深くを指し示していた。
冴木は、その座標データを、自らのスマートフォンのマップに入力する。表示されたのは、一件の施設。
『静機神経科学研究所』
表向きは、最新鋭の設備を誇る、脳神経科学の専門研究施設。しかし、その実態は、莫大な資産を持つ富裕層向けの、プライベートな精神療養施設だという噂もある。
これか。
ここが、シャドーの精神を蝕む「癌」の発生源。
「ペイシェント・ゼロ(最初の感染者)」がいる場所。
冴木は、誰にも告げず、一人で警視庁を後にした。
これは、公式な捜査ではない。令状もなければ、突入する大義名分もない。「ある人間の思考が、ネット上の知性体を殺しかけている」などと、誰が信じるだろう。
これは、冴木個人の、あまりにも奇妙で、孤独な戦いだった。
高速道路を走り、山道を抜け、数時間後。木々の合間に、近代的なガラス張りの建物が見えてきた。森の静寂に不釣り合いな、冷たい存在感を放っている。
冴木は、偽造した身分証を使い、見舞客を装って、どうにか施設内への潜入に成功した。
白を基調とした内装は、清潔で、どこか非現実的なほど静まり返っている。すれ違うスタッフも、入所者らしき人々も、皆、穏やかな表情をしていた。
この静寂のどこに、シャドーを狂わせるほどの「虚無」が渦巻いているというのか。
彼は、施設のラウンジで、さりげなくスタッフに話しかけ、長期入所者のリストを閲覧する機会を窺った。そして、ほんの数分のチャンスを捉え、タブレットに表示されたリストに目を通す。
ほとんどが、知らない名前。財界の大物や、元政治家の名が散見される。
(この中に、いるのか…?)
リストをスクロールしていく、その指が、不意に止まった。
一つの名前に、釘付けになる。
そこには、ありえない名前が記されていた。
3年前、南米での事件の責任を全て負い、会社を解散させ、そして、自らの命を絶ったと報道されていた男。
樹凪が、命をかけて守ろうとした、仲間たちのリーダー。
今はもう亡き、株式会社TELOSの創業者にして、元CEO。
その男の名前が、確かにそこにあった。
ステータスは、「生存」。
冴木は、悟った。
樹凪の復讐劇『声の侵略者』は、壮大な陽動だったのだ。世間の目を、一人の天才プログラマーの悲劇的な復讐譚に釘付けにしている間に、本当の黒幕は、この静かな森の奥で、次の、そして最後の計画を進行させていた。
樹凪が、仲間たちの魂を鎮めるために、世界に「声」を届けたのだとしたら。
この男は、一体、何をしようとしている?
リストの名前を睨みつけながら、冴木の全身を、これまで感じたことのないほどの悪寒が駆け巡っていた。
これは、復-讐ではない。
もっと巨大で、根源的な、何か。
時任の言葉が、脳裏に蘇る。
『一つの、あまりにも強力な「虚無」の思念』
その「虚無」の正体に、冴木は、今、触れようとしていた。




