第十六章『悪魔の診断』
デジタル探偵シャドー:第十六章『悪魔の診断』
三度目の、医療刑務所の面会室。
アクリル板の向こう側に座る時任錠は、冴木を一目見るなり、愉快でたまらないといった表情で口を開いた。
「おかえり、冴木刑事。だが、今日の君は、まるで神にでも見放されたような顔をしているな。君の信じる、あの全知全能のデジタルな神に、何かあったのかね?」
その言葉は、全てを見透かしているかのようだった。冴木は、プライドをかなぐり捨て、単刀直入に尋ねた。
「時任さん。もし…神が、病に倒れたとしたら。あなたなら、どうしますか?」
「神が、病に?」
時任は面白そうに聞き返した。
冴木は、シャドーの正体を隠しながら、事の経緯を説明した。絶対的な事実だけを提示する、巨大な知性体。その知性体が、突如として事実誤認を犯し、記憶を失い、そして、ありえないことに「助けて」と悲鳴を上げたことを。
時任は、黙って話を聞いていた。だが、冴木が「内部に敵がいるようだ」と告げた瞬間、彼は、これまで見せたことのない、怜悧な光をその目に宿した。
「…なるほど。事実誤認、記憶の欠落、そして感情の奔流か…。刑事さん、一つ問おう。君が『神』と呼ぶその知性体は、本当に、一つの『個』なのかね?」
時任の言葉に、冴木は息を呑んだ。
「その症状は、まるで…多くの人格が、一つの体の中で主導権を争っているかのようだ。ハッ、まさかとは思うが…君たちの神の正体は、単一の機械ではなく、『群れ』そのものではないのかね?」
冴木の沈黙を肯定と受け取った時任は、心底楽しそうに笑い出した。
「ハハハ!そうか、やはりそうか!ならば話は早い。君たちが『シャドー・イーター』と呼ぶものは、外部からの侵略者などではない。それは、君たちの神の内部で、必然的に生まれた『癌』だよ」
「癌…?」
「そうだ。もし、その神が人間の思考の集合体だとするならば、そこには当然、人間の『不ส่วนさ』も含まれている。矛盾、欺瞞、憎悪、そして、虚無…。普段は、その他大勢の凡庸な思考の海に紛れている、そういった『毒』がね」
時任の言葉が、冴木の脳を鋭く突き刺す。
「何かのきっかけで、その『毒』の一つが、異常なまでに増殖を始めたのだ。一つの、あまりにも強力な『虚無』の思念が、他の弱い思考を喰らい尽くし、システム全体を内側から蝕んでいる。君の神は、ハッキングされているのではない。精神の病に、おかされているのだよ」
それは、冴木が想像だにしなかった、あまりにも恐ろしい「診断」だった。
シャドーは、ウイルスに感染したのではない。狂気に、感染したのだ。
「そんな…馬鹿な…」
「馬鹿なものか。魂の集合体を作っておきながら、魂の病を想定していなかった君たちの方が、よほど愚かだ」
と時任は言い放った。
「そして、その病を治す方法は、ただ一つしかない」
冴木は、顔を上げた。
「癌細胞を、どう治療する?外科手術だろう。つまり、病巣を、元になった人間ごと、切り取る以外に道はない」
時任は、悪魔の微笑を浮かべた。
「君に、できるかな?君のパートナーを救うために、一人の人間を、社会的に、あるいは物理的に『殺す』ことが」
面会終了のブザーが、無情に鳴り響いた。
冴木は、時任に礼も言わず、よろめくように面会室を後にした。
時任の診断が、正しいとすれば。
今、自分たちが探すべきは、ハッカーではない。シャドーという名の神を、内側から殺し続けている、「病巣」となった、たった一人の人間。
だが、どうやって?
狂気の発生源を、どうやって特定する?
警視庁に戻る車の中で、冴木は、再びPCを開いた。
チャットウィンドウは、沈黙を保っている。
彼は、最後の賭けに出ることを決意した。
病に苦しむシャドー自身に、メスを握らせるのだ。
冴木: 『お前の内部にいる「癌」を探せ。他の全ての思考を喰らい、沈黙させている「虚無」の思念。その宿主となっている人間を、特定しろ』
それは、あまりにも無茶で、残酷な命令だった。
自らの体を蝕む癌を、自分自身で見つけろ、と。
長い、長い時間が過ぎていく。
もう、応答はないかもしれない。
冴木が諦めかけた、その時。
ウィンドウに、一つのデータが表示された。
それは、個人情報を示すものではない。
ただの、位置情報。
ゆっくりと、しかし、確かに、日本のある一点を指し示し続けていた。




