第十五章『ノイズと沈黙』
デジタル探偵シャドー:第十五章『ノイズと沈黙』
『助けて』
その一言が、網膜に焼き付いて離れない。
冴木は、周囲の喧騒が遠のいていくのを感じていた。キーボードを叩く音、捜査官たちの怒号、鳴り響く電話、その全てが、分厚いガラスの向こう側のように現実感を失っていく。
彼の世界の中心は今、この小さなチャットウィンドウの中にあった。
彼は、深呼吸を一つすると、震える指で返信を打ち始めた。被害者に語りかけるように、慎重に、言葉を選んで。
冴木: 『俺だ、冴木だ。聞こえるか。お前はシャドーか?』
数秒の沈黙。そして、返ってきたのは、およそ答えとは呼べない、思考の洪水だった。
シャドー: 『今日の夕飯はカレーにしよう』『明日の会議、憂鬱だな』『愛してる』『baka』『[err_404]』『死にたい』『眠い』『ゆるさない』『…a shadow… a digital ghost…』
それは、シャドーを構成している、無数の人々の、フィルタリングされていない生の思考だった。
普段は統合され、一つの知性体として機能しているはずの意識が、バラバラに分解され、奔流となって溢れ出している。まるで、ダムが壊れたかのように。
「…くそっ」
冴木は、事態の深刻さを理解した。シャドーの「自我」が、崩壊しかけている。
冴木: 『しっかりしろ!誰かに攻撃されているのか?イエスか、ノーで答えろ!』
必死の問いかけに、シャドーは再び奇妙な反応を示した。
今度は、意味のない記号と、破損したデータの羅列。
そして、その中に、ぽつり、ぽつりと、単語が混じっていた。
シャドー: 『喰われる…ノイズ…色が…ない…』
色が、ない。
その言葉に、冴木は神足真理の事件を思い出した。「無」の芸術を謳った、あの真っ白なキャンバスを。だが、関連性は見えない。
冴木は、最後の質問を投げかけた。
冴木: 『敵は、どこにいる?』
返ってきた答えは、たった一言。
その一言が、冴木の希望を打ち砕いた。
シャドー: 『中にいる』
中に。
シャドーの、内部に。
それは、病原体が、すでに血流に乗って全身に回っていることを意味していた。外部から切り離すことも、攻撃することもできない。
冴木は、チャットウィンドウを閉じた。これ以上の対話は無意味だ。シャドーは、もはや正常な思考ができない。
彼は、椅子に深く沈み込み、目を閉じた。
どうすればいい?
被害者は、実体のない知性体。
犯人は、その内部に潜む、見えない誰か。
犯罪の痕跡は、思考のノイズ。
前代未聞すぎる。捜査のしようがない。
シャドーという、神にも等しい武器を失った今、自分には何が残っている?直感か?だが、これほどの超常現象を前に、自分の直感が役に立つとは思えなかった。
途方に暮れた冴木の脳裏に、ふと、一人の男の顔が浮かんだ。
デジタルを「幻」だと言い、アナログの美学を語った、老獪な犯罪者。
神を殺そうとした女の心理を、いとも簡単に見抜いてみせた、悪魔の知性。
「……」
冴木は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、危険な光が宿っていた。
常識的な手段は、もうない。ならば、非常識で応えるまでだ。
神が病に倒れたのなら、悪魔に助言を乞うしかない。
冴木は、再びコートを手に取った。
彼の目的地は、三度、あの場所。
時任錠が待つ、医療刑務所だった。




