第十四章『欠けた月』
相棒が、悲鳴を上げた。
「助けて」
それは、デジタル探偵シャドーの、存在そのものが、内側から喰われる絶望の始まりだった。
デジタル探偵シャドー:第十四章『欠けた月』
樹凪の事件から数ヶ月。
世界は、何事もなかったかのように、騒がしい日常を取り戻していた。
冴木もまた、連続窃盗事件という、極めてありふれた、しかし地道な捜査の渦中にいた。
その日、冴木は容疑者の一人のアリバイを潰すため、いつものようにシャドーにアクセスしていた。
冴木: 『容疑者A、7月15日22時00分のアリバイを検証。本人は「自宅でオンラインゲームをしていた」と供述。ログイン記録、及び同時間帯のサーバー接続記録を照会してくれ』
それは、シャドーにとっては、呼吸をするよりも簡単なタスクのはずだった。
事実をデータとして拾い上げ、提示するだけ。通常なら、数秒とかからず応答がある。
だが、シャドーは、異常なほど長く沈黙していた。
焦れた冴木が、再度コマンドを送ろうとした、その時。
シャドー: 『照会完了。容疑者Aの同時間帯における、オンライン活動の記録は存在しません。アリバイは偽証である可能性が極めて高いと判断します』
「…よし」
冴木は、その応答に満足し、捜査資料にメモを書き込んだ。これで容疑者を追い詰められる。彼は部下に指示を飛ばし、捜査は一気に進展した。
だが、翌日。事態は、思わぬ方向へ転がる。
容疑者Aには、鉄壁のアリバイがあったことが、物理的な証拠から判明したのだ。
ゲーム会社のサーバーメンテナンスの記録ミスで、一時的にログイン記録が取得できなかっただけだった。彼は、完全に潔白だった。
「…シャドーが、間違えた?」
冴木は、自席で愕然としていた。そんなことは、ありえない。
シャドーは、単なる検索エンジンではない。膨大な情報の中から、矛盾やノイズを取り除き、限りなく100%に近い「事実」を提示する知性体だ。
彼がこれまで解決してきた数々の難事件は、その絶対的な信頼性の上に成り立っていた。
冴木は、震える指で、シャドーとのチャットルームを開いた。
何か、システム上の不具合があったのかもしれない。彼は、シャドー自身に問いかけた。
冴木: 『昨日の、容疑者Aに関する情報提供について。なぜ、誤った解析結果を提示した?』
シャドーは、また、長く沈黙した。
そして、返ってきた答えは、冴木をさらに混乱させた。
シャドー: 『…質問の意図が、理解できません。私は、昨日、あなたに情報を提供した記録が、存在しません』
全身の血の気が引いていく。
シャドーが嘘をつくはずがない。だとすれば、一体何が起きている?昨日の自分とのやり取りは、幻だったとでもいうのか?
冴木は、自らの思考が、現実が、ぐにゃりと歪むような感覚に襲われた。彼は、最後の望みをかけて、シャドーに、最も根源的な命令を送った。
冴木: 『自己診断を実行しろ。システムの状態を報告せよ』
それは、シャドーの存在そのものへの問いかけ。
今、この瞬間も、ネットの海にいる何百万人もの無意識が、シャドーを形作っているはずだ。その健全性を、自分自身で確認しろ、と。
長い、長い沈黙が、チャットルームを支配した。
1分。5分。10分。
これほどの無応答は、初めてだった。
冴木が、PCの電源を落とそうとした、その時。
ぽつり、と。
ウィンドウに、たった一言だけ、メッセージが表示された。
それは、これまで一度も見たことのない、あまりにも人間的な、そして、絶望的な響きを伴った、救いを求める声だった。
『助けて』




