第十三章『マブイの鎮魂歌』
デジタル探偵シャドー:第十三章『マブイの鎮魂歌』
港区のウォーターフロントに、そのビルは墓標のように突き立っていた。
ガラスは汚れ、壁には蔦が絡みついている、
旧・株式会社TELOS本社ビル。
かつて日本のIT業界の未来を担うとまで言われた場所は、今はただ、潮風に晒されるだけの抜け殻だった。
深夜、ビルの周囲を、警告灯を消した警察車両が静かに包囲する。物々しい装備の特殊部隊(SAT)と共に、冴木もその場にいた。
「本当に、この中に…?」
隊長の問いに、冴木は黙って頷いた。
突入の合図と共に、部隊は音もなくビル内部へと侵入していく。埃とカビの匂いが混じり合った、淀んだ空気。散乱した書類、横倒しになったオフィスチェア、壁に残る「夢をありがとう」という社員の落書き。全てが、3年前に時を止めていた。
隊員たちが各フロアの安全確保に散る中、冴木は、何かに引かれるように、一直線に最上階を目指した。そこは、かつて役員フロアだった場所だ。
一番奥、ガラス張りの旧社長室のドアを開けると、冴木は息を呑んだ。
部屋の中央に、一人の男が静かに座っていた。樹凪だ。
彼の周囲には、何十台ものモニターが円形に配置され、その全てに、今は亡きテロス社の社員たちの笑顔の写真が、スライドショーで映し出されていた。
樹凪は、侵入してきた冴木と特殊部隊を一瞥すると、穏やかに微笑んだ。
「…君が、見つけに来てくれると信じていたよ」
その声には、抵抗や敵意のかけらもなかった。全ての役目を終えた者の、静かな安堵だけがあった。
「なぜ、こんなことを…」
冴木の問いに、樹凪はモニターに映る仲間たちの顔を愛おしそうに見つめた。
「彼らの声が、聞こえたんだ」
と樹凪は言った。
「世間に晒され、尊厳を奪われ、誰にも助けてもらえずに死んでいった、僕の大切な仲間たちの魂の声が。彼らは、ただ聞いてほしかっただけなんだ。『私たちは、ここにいたんだ』と」
「だから、世界中に聞かせてやったのさ。プライバシーという名の薄っぺらい壁を壊して、魂が直接語りかける世界を。僕らが夢見た、本当の意味での『繋がる世界』をね。…どうだったかな?ほんの数時間だったけど、世界は少しだけ、正直になれたんじゃないか?」
その顔は、テロリストではなく、夢破れた理想家のそれだった。
樹凪は、ゆっくりと両手を差し出した。逮捕を受け入れる意思表示だ。
「僕の負けだよ。君の後ろにいる『何か』は、僕の想像を超えていた。僕が作った静かな嵐の中から、魂の署名を読み解くなんてね」
樹凪が特殊部隊に連行されていく。その背中は、背負っていた全ての重荷を下ろしたかのように、小さく見えた。
事件は、こうして幕を閉じた。
世間は、天才ハッカーの逮捕に安堵し、日常を取り戻していく。だが、一度人々の心に植え付けられた、「最も身近な機械に監視されている」という疑念は、簡単には消えないだろう。
数日後、自宅に戻った冴木は、黙ってスマートスピーカーの電源コードを抜いた。
そして、彼は自分のPCに向かうと、シャドーとのチャットルームを開いた。
そこに打ち込んだのは、捜査の報告ではない。個人的な、たった一言の問いかけだった。
冴木: 『お前は、そこにいるのか?』
数秒の沈黙。
やがて、シャドーからの返信が表示された。
シャドー: 『はい。いつでも、ここに』
その無機質なテキストが、今の冴木には、樹凪が求めた「魂の応答」のように思えてならなかった。




