第百二章『投了』
デジタル探偵シャドー:第百二章『投了』
2025年10月11日、土曜日、午後2時。
京都大学、吉田キャンパス。
秋の柔らかな日差しが降り注ぐ、銀杏並木を抜け、冴木は石田蓮の研究室のドアを、ノックした。
中から、聞こえてきたのは、穏やかで知的な、声だった。
「……どうぞ」
部屋は、床から天井まで、古今東西の書物で、埋め尽くされていた。
窓辺のテーブルでは、白衣を着た、男……石田蓮が一人、静かに碁盤に、向かっていた。
「……何か?」
石田は、顔も上げずに、問うた。
「石田教授ですね」
冴木は、部屋に入ると、彼の前に、一枚の書類を、置いた。
「あなたの、最新の論文草稿、大変興味深く、拝読しました」
それは、シャドーが見つけ出し、冴木が合法的に、押収した、あの「棋譜」だった。
その一言で、石田は初めて、顔を上げた。
その目に、浮かんでいたのは、驚きではなく、自分の、作品を理解する、人間が現れたことへの、純粋な、知的好奇心だった。
「…ほう。あれを、読み解きましたか。どこが、気に入りましたかな?」
「全てだ」
と、冴木は言った。
「特に、結論部分。理論モデルとして、提示された、攻撃手法。……まるで、数日前に、豊橋市で起きた、事件を予言しているかのようだった」
冴木は、テーブルの、上の碁笥から、黒石を、一つつまみ上げると、碁盤の上に、置いた。
17の4、天元。
バジリスクが残したサインと、同じ場所に。
その一手を、見た瞬間、石田の表情から、笑みが消えた。
「……あなたの『神の、一手』は、実に見事だった。だが、どんな完璧な棋譜も、それが現実世界に、影響を及ぼした瞬間、ただの『犯罪計画書』になる」
冴木は、続けた。
「バイオ・フューチャー社からの、金の流れも、掴んでいる。あなたの勝利は、もうない」
石田は、何も言わなかった。
ただ、静かに盤面を、見つめている。
彼の、頭の中では、既に何百手も、先の完全な、敗北までの、道のりが見えているのだろう。
やがて彼は、すっと立ち上がると、自らの碁笥から、白石を二つ取り、冴木が置いた黒石の、すぐ横に、並べて置いた。
投了。
囲碁における、敗北宣言の作法だった。
「……私の、負けだ」
それは、天才が初めて自分以外の、人間の知性を、認めた、瞬間だったのかもしれない。
冴木は、何も言わず、ただ静かに、手錠を取り出した。
秋の午後。
美しすぎたゲームは、静かに終わりを、告げた。




