第十章『声の侵略者』
「あなたは、そこにいますか?」…日本中のAIが、そう問いかけた時、それは亡き仲間たちの魂を弔う、一人の天才の哀しい復讐劇の始まりだった。
デジタル探偵シャドー:第十章『声の侵略者』
2025年7月19日、土曜日
午前8時59分。
冴木閃は、自宅のキッチンでコーヒーを淹れていた。
珍しく事件のない、穏やかな週末の朝。窓から差し込む夏の日差しが、床に明るい四角形を描いている。彼が愛用するスマートスピーカーからは、静かなジャズが流れていた。
それは、ありふれた、平和な日常の光景。
午前9時00分00秒。
その瞬間、全ての音が、吸い込まれたかのように消えた。
流れ出したばかりのサックスのソロが、不自然に途切れる。冴木が訝しんでスピーカーに目を向けた、その時だった。
『あなたは、そこにいますか?』
スピーカーから発せられたのは、いつも聞き慣れているAIアシスタントのものとは似ても似つかない、抑揚のない、平坦な合成音声だった。
冴木の刑事としての勘が、瞬時に警報を鳴らす。これは、ただのバグではない。
次の瞬間、スピーカーは、ありえない言葉を続けた。
『昨夜23時15分、あなたの音声コマンドを認識。
「神足真理、その後の足取り」。該当キーワードを含む、非公開捜査に関する音声データを5件記録済みです』
冴木の血が、凍りついた。
それは、彼が昨夜、自室でPCを操作しながら、独り言のように呟いた言葉そのものだった。警察のサーバーが破られたのではない。この部屋が、この空間が、ずっと「耳」を澄ましていたのだ。
直後、彼のスマートフォンが狂ったように鳴り響き始めた。上司から、同僚から、そして登録していない無数の番号からの着信。
テレビが緊急ニュース速報に切り替わる。
『速報です。たった今、全国の家庭やオフィスに設置されたGoogle社のスマートスピーカーが一斉に奇妙な言葉を発し、個人情報を暴露し始めるという、前代未聞の事態が発生しています』
画面には、パニックに陥る人々の映像が映し出されていた。
北海道の農家で、家族の前でローンの残高を暴露される父親。
大阪のオフィスで、転職活動のメールを読み上げられ、青ざめるOL。
福岡の学生寮で、友人との秘密のチャット内容を明かされ、呆然と立ち尽くす若者。
日本中が、たった一台のスピーカーによって、巨大なパニックルームへと変貌していた。
警視庁に駆け付けた冴木が見たのは、戦場そのものだった。鳴り止まない電話、怒号を上げる職員たち。
「現場はどこだ!」
「全部だ!日本中が現場なんだよ!」
物理的な証拠はない。目に見える犯人もいない。ただ、数百万の「声」が、この国のプライバシーという概念を、根底から破壊している。
冴木の直感も、この広大すぎる被害の前では、どこに焦点を結んでいいのかわからない。
「…シャドー」
冴木は、人混みをかき分け、情報分析室の空いている端末に飛びついた。彼が打つキーボードの音だけが、異様なほど冷静だった。
冴木: 『緊急事態だ。今、日本中で起きているIoTデバイスの暴走。犯人は、自らを「マブイ」と名乗っているらしい。全ての情報を解析し、侵略の起点を特定しろ。今、この瞬間から』
これは、もはや一人の刑事が対応できる事件ではない。
インターネットという、もう一つの世界で行われている、日本という国家に対する、静かなる「侵占」。
そして、この見えざる戦争で、唯一対抗できる可能性があるのは、同じくインターネットの海に棲む、正体不明の知性体だけだった。
シャドーからの返信は、まだない。
だが冴木にはわかっていた。画面の向こう側で、デジタル探偵が、すでに動き出していることを。




