第9話:旅立ちと追跡者
アレスは数日かけて、旅の準備を進めた。日中は貧民街で依頼をこなし、夜は祖父の日記帳を読み返しながら、古き賢者の塔への道のりを思案した。稼いだわずかな報酬は、食料や最低限の旅道具に消えていく。貯められる額は雀の涙ほどだったが、アレスには立ち止まっている時間がないことを知っていた。
ライラには、賢者の塔へ向かうことは告げなかった。ただ、「しばらく街を離れる」とだけ伝えた。ライラは心配そうな顔をしたが、アレスの固い決意を感じ取ったのか、それ以上は何も言わなかった。代わりに、道中での無事を祈るように、彼が作った小さな木彫りの鳥をアレスに手渡した。
「気をつけろよ。お前の腕があれば、どこへ行ってもやっていけるさ」
ライラの言葉に、アレスは小さく頷いた。彼は友の温かさに感謝し、同時に、この旅で彼を危険に巻き込むわけにはいかないと改めて誓った。
出発の朝、アレスは薄暗い部屋で、祖父の工具箱の底から木箱を取り出した。中には、あの金属片の**「鍵」**と、秘録である日記帳が収められている。これらは、彼の旅の目的そのものだった。慎重に革製の袋に包み、肌身離さず持てるよう、上着の内ポケットに忍ばせた。祖父の形見である片手剣も、しっかりと腰に携えた。
空はまだ暗く、星が瞬いている。貧民街は静寂に包まれていた。アレスは、慣れ親しんだ小さな家を振り返った。ここが彼の故郷であり、そして、彼が守るべき世界の始まりの場所だ。
「行ってくるよ、じいさん…」
心の中で祖父に語りかけ、アレスは家を後にした。
貧民街を出て、旧王都へと続く街道に出る。夜明け前の空気はひんやりとして、アレスの気を引き締めた。街道を行き交う旅人や商人はまだ少ない。彼は人目を避けるように、足早に進んだ。
しばらく歩くと、遠くから馬車の蹄の音が聞こえてきた。アレスは身を隠し、様子を窺う。近づいてきたのは、見慣れない馬車だった。黒い幌で覆われ、窓は塞がれている。そして、その御者台には、昨日貧民街で見た『影の牙』の男たちが乗っていた。
アレスの心臓が早鐘を打つ。まさか、こんな場所で出くわすとは。男たちは、アレスの存在に気づくことなく、旧王都方面へと進んでいく。彼らの目的地も、古き賢者の塔なのだろうか。それとも、別の「鍵」を探しに向かっているのか。
冷や汗が背中を伝う。彼らもまた、祖父の日記帳に書かれた場所の手がかりを掴んでいる可能性があった。もしそうなら、賢者の塔はすでに危険な場所となっているかもしれない。
しかし、アレスに引き返すという選択肢はなかった。祖父のメッセージ、そして世界の命運が彼の肩にかかっている。それに、あの「鍵」がなければ、「時の心臓」を止める手立ては見つからないだろう。
アレスは男たちの馬車が見えなくなるまで待ち、再び歩き出した。彼の表情は、一瞬の動揺の後、さらなる決意に満ちたものに変わっていた。この旅は、想像以上に過酷なものになるだろう。だが、彼はもう一人ではない。祖父の遺志、そしてライラの友情が、アレスの背中を押していた。
陽が昇り始め、街道は少しずつ明るさを増していく。アレスの影が長く伸び、旧王都への道を指し示していた。