第7話:影の牙と新たな使命
アレスは祖父の日記帳を閉じた。「時の心臓」。時間を操作する禁断の魔導具。そして、その再誕を防ぐというヴァルガス家の使命。にわかには信じがたい真実が、彼の目の前に突きつけられていた。昨日までただの修理屋だった自分が、突如として世界の命運に関わる重責を背負わされた。
「一体、どうすればいいんだ…」
彼は茫然と自問する。日記帳には、具体的な解決策は記されていない。ただ、「鍵」と「使命」だけが示されている。祖父は、アレスにこの重荷を託したかったのだろうか。それとも、彼がこの真実にたどり着くことを信じていたのだろうか。
アレスは再び、手に持った金属片、つまり「鍵」を見つめた。これを持っているということは、あの男たちに狙われる可能性が高いということだ。彼らはまだ、この工房に隠された「鍵」の存在を知らない。だが、時間の問題だろう。
廃墟となった工房の窓から、西の空が赤く染まっているのが見えた。そろそろ貧民街の夜が始まる。アレスは日記帳と金属片を再び木箱に収め、それを使い慣れた工具箱の底に隠した。安全な場所とは言えないが、他に隠し場所を思いつかなかった。
工房を出て、彼は貧民街の通りを歩いた。昼間とは打って変わって、あちこちで焚き火が焚かれ、人々が身を寄せ合って談笑している。しかし、その賑わいも、アレスの心には届かない。彼の思考は、「時の心臓」と、迫り来る危険でいっぱいだった。
祖父の日記帳には、「鍵」が複数存在すると記されていた。昨日、男たちが奪っていった木箱の中にも、別の「鍵」があったのだろう。彼らは、その「鍵」を使って何をしようとしているのか。そして、一体何者なのだ。
アレスの足は、ライラの営む小さな露店へと向かった。ライラは今夜も、自作の簡単な機械仕掛けのおもちゃや、日用品を並べて客を呼び込んでいる。アレスの姿を見つけると、ライラは心配そうな顔で近づいてきた。
「アレス、顔色が悪いぞ。まさか、昨日のこと、まだ気にしているのか?」
アレスはライラの隣に立ち、小声で尋ねた。
「ライラ、街の裏組織について、何か知っているか? 最近、貧民街に出入りしている連中のことなんだが…」
ライラは眉をひそめた。
「裏組織か…ああ、いくつか評判の悪い連中はいるが、まさか、お前が関わるとは…」
ライラは辺りを警戒するように見回し、さらに声を落とした。
「最近、『影の牙』とかいう新興の連中が、急速に勢力を伸ばしているらしい。目的は不明だが、とにかく荒っぽいやり方で、色々な物を強奪していると聞く。街の警備隊も手を焼いているとか…」
『影の牙』。その名が、アレスの心に刺さった。あの男たちが、その組織の人間なのだろうか。
「『影の牙』が、なぜ貧民街で古い魔導具を探しているんだ?」
アレスの問いに、ライラは首を傾げた。
「そこまでは知らないな。ただ、何か大きなものを企んでいるという噂だ。お前は関わらない方がいい。危ない橋だぞ」
ライラは再び忠告するが、アレスの耳には届かない。彼らは「鍵」を集め、そして「時の心臓」を動かそうとしている。もしそれが事実なら、この貧民街、いや、この世界全体が危険に晒されることになる。
「俺は…」
アレスは一度、言葉を詰まらせた。そして、決意を固めたように顔を上げた。
「俺は、祖父が残したものを守る。そして、この世界を、『時の心臓』の脅威から守らなければならない」
ライラはアレスの真剣な眼差しを見て、何も言えなかった。彼の親友が、これまでとは違う、何か大きな使命を背負おうとしていることを感じ取ったのだろう。
アレスはライラに背を向け、夜の貧民街を歩き出した。彼の心には、不安と同時に、新たな決意が宿っていた。ヴァルガス家の末裔として、そして一人の人間として、彼はこの困難な道を進むことを選んだのだ。だが、どこから手をつければいいのか。手がかりは、祖父の日記帳に記された断片的な情報と、今、彼が持つ「鍵」だけだ。