第2話:貧民街の異変
明け方の冷たい空気が、アレスの頬を撫でた。簡素なベッドから起き上がり、昨夜修理した工具箱を手に取る。貧しいながらも整理整頓された部屋の中には、祖父の形見である古い機械仕掛けのオルゴールが置かれている。ゼンマイを巻くと、微かで懐かしい旋律が流れ出した。アレスは一瞬だけ立ち止まり、その音色に耳を傾ける。それは、過ぎ去った穏やかな日々を思い出させる、かすかな慰めだった。
外に出ると、東の空がゆっくりと白み始めている。貧民街の住人たちはまだ寝静まっているのか、通りには人影はまばらだ。アレスは目的の商会へと足を早めた。
商会は、貧民街の外れにある、比較的大きな建物だった。昨日の夜に約束を取り付けていたため、門番に名前を告げると、すぐに中へ通された。薄暗い倉庫の中には、様々な荷物が積み上げられ、独特の匂いが漂っている。
奥から、恰幅の良い商会主のバルドルフが現れた。赤い鼻をした、いかにも商売上手そうな男だ。
「おお、アレスさん、約束通り来てくれたか。助かるよ」
と、にこやかに声をかけた。
バルドルフに案内されたのは、荷馬車が数台置かれた裏庭だった。目当ての荷馬車は、車輪が大きく破損しており、完全に走行不能な状態だ。
「これが困っててね。急ぎで北の街まで荷を運びたいんだが…」
と、バルドルフは困った顔で説明した。
アレスは黙って破損箇所を確認した。車輪の木材が大きく裂け、軸受けも歪んでいる。典型的な損傷だが、丁寧に修理する必要がある。
「明日には使えるようにします」
と、アレスは短く答えた。
バルドルフは安堵したように頷いた。「それは助かる。材料はここに用意してある。遠慮なく使ってくれ」。そう言うと、バルドルフは使用する木材や金属部品の置かれた場所をアレスに教え、仕事場を後にした。
アレスは早速、工具を取り出し、修理に取り掛かった。まずは破損した木材を取り外し、新しい木材を寸法に合わせて切り出す。祖父から教わった古くからの手法と、自身で改良した少しの技術を組み合わせ、細かい作業を進めていく。
作業の合間、アレスはふと空を見上げた。高い空には、今日もまた、機械の鳥のような飛空船が、ゆっくりと動いていた。機械技術と魔法が発達したこの世界では、交通手段の一つとして飛空船が広く使用されている。いつか自分も、あのような空を自由に飛び回れるような機械を作りたい。幼い頃からの、密かな夢だった。
作業に没頭すること数時間。太陽が高く昇り、汗が額を伝う。集中して作業を進めた結果、新しい木材は元の形を取り戻し、歪んだ軸受けも調整が終わった。最後に、特殊な魔導オイルを塗り込み、強度を高める。
夕刻近くになり、ようやく修理が完了した。新しい車輪は、以前よりも頑丈になったように見える。アレスは満足のいく仕上がりに、小さなため息をついた。
バルドルフに修理完了を告げると、彼は目を丸くして出来栄えを確認した。
「これは素晴らしい!見事な腕だな、アレスさん」
と、満面の笑みで褒め称えた。約束の報酬を受け取り、アレスは商会を後にした。
帰り道、貧民街の入り口で、昨日は見かけなかった奇妙な男たちが数人、入り口を警護しているのに気づいた。粗野な顔つきで、腰には武器をぶら下げている。普通の街の警備兵ではないようだ。
アレスは警戒しながら、彼らの脇を通り過ぎた。彼らはアレスには特に関心を示さなかったが、その奇妙な雰囲気に、アレスはかすかな不安を覚えた。貧民街に、一体何が起こっているのだろうか。