32 お妃様になります
嵐のような闖入者によって、新エディン公爵とその婚約者であるアンジェ殿下の紹介は取りやめになってしまいました。
表向き、アンジェ様はミッドガルドに連れ去られたことになっているので、大っぴらに婚礼を上げる事はできません。
当然、新サノーバ侯爵とフィリップ殿下の婚約の発表もです。
私は差し出された大国の王の手に自らの手を重ね、恭順の意を示します。
…なんでこうなった。
いえ、私ごときがアンジェ様の身代わりとなれるのなら本望ですが。
それでも真実が明るみに出るのは時間の問題でしょう。
ならば、少しでも長く時間稼ぎをしたいものです。
そうすればリンゼイの力も借りられるかもしれません。
でもリンゼイが動いてくれるのでしょうか。
本当にアンジェ様ならともかく、リンゼイの血を引かない私の為に動いてくれるとは俄かに信じがたいのですが。
名目上は求婚であっても、実質的には人質です。
やはりトーエンとの結びつきはミッドガルドを刺激したのでしょう。
私はヘルベルト王の滞在する部屋に連れてこられました。
「王女の輿入れだ。私は身一つでもかまわないが、そちらも持参したい侍女などもいるだろう。一時ならば待つから、支度をさせよ」
ソファに座る私に向かって文字通りの上から目線でヘルベルト王がそう言います。
意外と紳士的?
いえいえいえ、やってることが既に強引ですから。
「その辺りについてはご配慮いただきありがとうございます?」
そこに侍女達が入室してきました。
その中にはアンナもいますし、何故かフィリップ殿下もいらっしゃいます。
「ヘルベルト陛下。アンジェは婚約中の身です。国を出るにあたり、婚約の解消が必要になります」
訝しんでいたミッドガルド王もフィリップ殿下の御言葉に頷かれます。
殿下の後ろに控えていた侍従長が文書箱を殿下に渡しました。
「アンジェ。この書類に署名を。『君自身の名で』。シオンを出る前に必要な手続きだ。今すぐここで」
そう言って2枚の書類を目の前に出されました。
―――私自身の名前?
訝しながらその書類を見ると…
それは婚姻の証書でした。
フィリップ殿下と私の。
驚きの余り、手が止まってしまいました。
「間違いが発覚した時に、これがあれば動く大義名分ができる。予定が狂ってしまったけど、僕の妃になってくれるね?」
こっそりとフィリップ殿下が耳打ちしてきました。
ミッドガルドに連れ去られる事も、フィリップ殿下の妃になる事も夢の中にいるようにふわふわとした心地でしたが、神殿に提出する書類を目の前にしてこれが現実なのだと思わされます。
ペンを一度しっかり握り、署名をします。
殿下の名が書かれたその下に。
エヴァンジェリン・サノーバ・アルキオーネの名を。
インクが乾いたのを確認して、汚れないように更に当て紙をして殿下は書類を再び文書箱に納めました。
「責任をもって司祭に届けます。アンジェ、君に神の祝福があらんことを」
そう言って殿下は私を抱きしめてから侍従長と共に退出されました。
書類はシオン語で書かれていたので、ミッドガルド王にはその書類がチラと見ただけではよくわからなかったのかもしれません。
それが幸いしました。
全ての段階をすっ飛ばして、私はフィリップ殿下の妃になりました。
でもその殿下が私の傍に居ない事が、やけに寂しく感じました。
自分が納得して選んだ道とはいえ、これから向かうのはミッドガルド。
その王族とアンジェ殿下として婚姻するのです。
私に寄り添ってくれたシオン王家の方々。
その方々の恩に報いることができて幸せです。
そう思っているのに、ぽろりと涙が零れました。
後から後から。
何故でしょう。
止まりません。
こんなに涙をこぼしたのは、何時以来でしょうか。
可愛げが無いと言われていた私にも、こんなにも流す涙があったのだと自分で驚いています。




