(苦)
大殿、貴方様の生き方のありようは人々に慕われ敬われ仰ぎ見られる事でしょう。御隠れあそばした時は、きっと多くの方々が嘆きましょう。しかしそれは精々百年のことでごさいます。
ですが火焔に撒かれ苦しむわたしを父が描きました地獄屏風は、それより遥かに長く世に残るはずです。絵の中のわたしが悶え苦しむさま、それを描いた父の名も無論。
その絵の中で悠久にも等しく描かれるのなら、わたしは儚い人の世など何時なりと別れを告げても惜しくなかったのです。
炎に撒かれる車の中に鞠のように転がり込んで来たのがあの小猿であったことは、わたしにとって望外の喜びでした。健気な獣はわたしの肩に縋りついて離れようとしません。もしや父の代わりにわたしに添うてくれるつもりなのでしょうか。その心根に報いる為に確と胸に抱き収めてやりました。
もし叶う事なら、わたしは父と手を携えて冥途をめぐりたく思います。鬼の極卒に引き立てられ、生きた屍の肉を啄もうとする怪鳥が十羽となく二十羽となく、嘴を鳴らして紛々と中空を飛び繞ぐる中を袖で祓い乍ら、血の池や針の山を巡るのです。
畜生道では牛頭馬頭となった祖父母や母に遭えるやも知れませぬ。もしかしたらわたしの姿こそが、人の形を捨てた畜生になっているとしても不思議はありません。しかしその轡を取ってくれるのが父であれば、私は一向に構わないのでございます。
たとえ三面六臂の鬼の形が、音のせぬ手を拍き声の出ぬ口を開いて私と父を虐みに参りましても、冥界十王は御止めになる筈でございます。きっと父の絵にはそれだけの魂が――宿っておりますから。
終
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