(四)
かつて大殿は父に「その方は兎角醜いものが好きと見える。」と御冗談を云われたそうでありますが、大殿こそ醜いものがお好きなのではないかとわたしは思います。大殿はその分け隔てない広く穏やかでありながら時に見事なまでの果断な決意を為される御人柄から、京の方には下々にまで敬われております。誰もがあの御方を優れた御人だと褒め称えます。
その大殿が父を傍に近づけるは父の描くものが見事だからだ、と人々は云いました。
心根人品卑しくとも、その才がある故に寛容な御心が御赦しくださるのだと。
いいえ、大殿はむしろ其らの絵を作るために心を捨て、あらゆる因業を纏う父の姿が好きなのでございます。
常に人から正しき御方恐れ多い御方と讃えられ、高い志と深い思いやりを求められる事に応えなければいけない大殿の御心や御振舞いは、間違いを赦されません。その対極に居るただ欲望の赴くままに横暴に振る舞い、人に謗られ嫌われようとけして無視できない才を持つ父を、大殿は合わせ鏡に映る己の影であると感じられたのではないでしょうか。
おそらくは父を傍近くに召されることが、大殿に許される唯一の御『悪行』であらせられたように拝察致します。
だからこそ大殿は赦せなかったのです。
すべての人らしい心を捨てた事でその鬼のごとき才を得た筈の父に、人らしい心の拠り所であるわたしという存在がある事を、御赦しになれなかったのでございます。
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肩に掛けられた打衣は、神々しいまでに艶やかな深緋に染め抜かれてゐました。表衣は透ける程に薄き真白であった為、未熟なわたしにもそれがとうに季節をすぎた桜の襲である事が分かります。
此れから死に往く私に大殿は何を思われてこの装束を選ばれたのでしょうか。もしや桜の神である木花之佐久夜毘売が浅間の神と云われ、炎の神でもあるからでしょうか。あるいは何も御考えにはなく唯麗しいものをと御下知為されたのかもしれません。