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偏訳・地獄変  作者: ねも
3/10

(三)


 父は仕事に取り掛かりますと、わたしとは顔を合わせてはくれません。それでも風聞は伝え聞いております。おそらく私の存在すべてを心から消し去って、画業に励んでゐるのだと思ってゐます。

 今頃は大殿の意に応えようと、さぞ惨たらしいものに囲まれているのでしょう。弱った獣から烏が目の玉を()()こうとしている(さま)でしょうか、それとも弟子に縄をかけ鞭うたれる苦痛の表情を丹念に写し取ってゐるのか。あるいは生きた蛇を梁から釣るして油を滑らせ、火をかけてゐるやもしれませぬ。

 父は才ある人でありますがそれに奢らず、けして妥協しないお人であります。納得のゆく絵を仕上げる為にはどのような惨い仕打ちも目の当たりにして心と瞼に焼き付け、そして記憶の高揚と共に筆を走らせる為人(ひととなり)だと弟子の男がそう申しておりました。


 父はわたしにはけしてそのような姿を見せませぬ。わたしの前に居る時、父はいつも優しく朗らかでよく笑うお人でありました。欲しいものはないか足りぬものはないかとしきりに訊ねます。何もないと答えた時の落胆した表情が見たくなくて、いつ問われても良いように思いついた品を書き留めておくようになりました。そのような父をわたしは好きでした。


 父の容貌は醜いと云われます。けれどそれが何でありましょう。恋慕の対象にはならぬ娘の私には関係ありませんでした。その性狷介にして居丈高で、吝嗇にして慳貪だとしても、私にとっては心を砕いてくれる優しい父であります。父の心が万人に注がれないからと言って何故非難されるのでしょう、その方々は父の視界にすら入れない事も知らず口さがない事を申し立てております。

 其程に父の事が嫌いなら口の端に上らせなければ良いのに、どうしても誹謗せずにゐられないのは父が大殿のお気に入りであり本朝随一の絵師だからでございます。


 わたくしは絵を描いてゐる時の父の姿は知りませんが、その絵は幾つも目にしております。華やかなもの陰惨なもの精緻なもの、それらはとても見事だと思いました。皆が父を無視できないのはひとえにその技量にあるのですから、人柄骨相などは些細な事ではないかと何故方々は思われないのでしょうか。

 父の絵が彼方(ああ)まで見る人の心を打つのは、父が妖かしのものと契約してゐるからだという噂がございます。それの何がいけないというのでしょう。見事な作品を作り上げる為あやしの魔物に魂を売ったのなら、それは父の勝手でございます。そうまでして己の納得するものを描きたいという覚悟が、凡百の絵師にはないだけのこと。

 実際父はあやしの鬼を身に纏わせているのではないかと思います。だからこそどのような惨たらしい場面も、幾つもの苦しみや怨嗟を(まなこ)反らすことなく真摯に見つめる事が出来るのでしょう。腐りかけた屍骸の肉が熟んで落ちる瞬間を目の当たりにする為に、じっと傍らに座り続ける肚はらは人間のものではないかもしれません。

 ですがわたくしはそんな父を醜いとは思いません。むしそこまで身体と魂を捧げてまで何かを描こうとする父の覚悟を、誇りにすら思います。そんな父の姿を見る事が出来ぬのを哀しみながら、わたくしは時折曹司にて戯れで小猿に絵筆を持たせることもありました。





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