02.古代ローマの魚市場を行く
魚醤や塩漬け魚と異なり、新鮮な魚は腐敗する前に売りさばかねばならなかった。
首都ローマで新鮮な魚を手に入れるならば近くを流れるテヴェレ川で釣れる川魚が安価だったが、軍港オスティアや港町ポルトゥス、その他の漁港で釣った海魚も高額で買うことが出来た。
釣った魚は街中の市場や路上で売られていた。
漁村や貴族の別荘で地産地消されるものとは違い、市場で売るための魚には税金が掛けられた。
税関は州政府が管理し、徴税した。州政府もまた税関建造のための資金を供出し、かつ出資者を募った。
魚を対象にした税関もあったようで、エフェソスの碑文によれば、税関の建物は中産階級市民を中心とした出資者たちの支援を受けて建設され、魚屋と漁師の組合がイシス神に奉献したという。
共和制後期から、建設資材を除いて日中に荷車でローマ市内に入ることは禁じられていた。荷車で輸送していた場合、漁師は夜中のうちに町に入るか、税関のある市門の前で魚屋に売り渡す必要があっただろう。
リウィウスによれば共和制中期まではローマ首都の中心地近くにある魚市場forum piscariumで魚が販売されていた。ここにはかつて幅25mほどの広い貯水槽があったことが分かっている。
市場nundinaeは8日に1回開かれていた。ローマが海を支配するまで常設の市場の需要は無かった。
紀元前2世紀初頭に魚市場forum piscariumは常設の市場であるマセルムmacellumに改修された。マセルムは複数の食料品店舗tabernaeを容れる事の出来る大型の建物で、高層住宅同様地元の資産家によって建てられた。
マセルムの規模には大小があり、二階建てのもの(macellum magnum)もあった。円形か方形の構造をしていて、数店舗から数十店舗で構成されていた。全てのマセルムには屋根があり、中央に広場あるいは噴水があった。八百屋や魚屋の店舗はマセルム内で取引したが、肉屋の店舗は処理の関係から通りと用水路に面していて、道路沿いで取引した。造営官aedilesの監視の下、腐った魚は取り締まられていた。
魚屋を含むマセルムはポンペイやオスティアで確認できる。魚屋らしき店舗には水槽があり、店舗の壁画には海と魚が描かれた。一方で、魚の加工品であるガルムは確認されなかった。
ティレニア海の海岸から約30km離れた首都ローマ市と違ってポンペイとオスティアは海沿いにあるため、新鮮な魚を比較的容易に手に入れる事が出来た。
高級な魚は競売で取引された。ポンペイのマセルムでは建物中央の列柱に囲われた広場で生きた魚が売られていたようであるが、ここで高級魚がオークション販売されていたと考えられている。加工もここで行われたようで、排水溝に多くの魚の鱗が発見されている。銀行家がオークションスタッフとして、魚籠持ち奴隷を従えて競売を進行した。少なくとも帝政初期にはオークション税が掛けられていて、行政の監視下にあった。中央広場は市場の監視にも利用できただろう。
プリニウスは8000セステルティウスで魚を買った執政官の名を挙げ、ホラティウスは3000セステルティウスで販売された魚について触れ、ユウェナリスは6000セステルティウスする赤ボラについて、スエトニウスは30000セステルティウスで売られた3匹のボラについて言及する。これらは特定の魚が高級品だったことを示唆しているが、当時としても高額な取引であり、一般的ではなかった。
一般的な魚の価格について4世紀初頭のディオクレティアヌス帝の最高価格令は、淡水魚は1ローマンポンド(約300グラム)につき8~12デナリウス、海水魚は16~24デナリウス、塩漬けの魚は6デナリウスと説明している。1デナリウスは4セステルティウスである。こちらも高価だが、4世紀初頭には激しいインフレ下にあったため、それ以前はもっと安かったかもしれない。例えば最高価格令において一般的なワインは1セクスタリウス(500mlくらい)につき8デナリウスだが、マルティアリスは1つの陶器壺分のワイン(20~25ℓ)につき20セステルティウスと述べている。
高額取引の存在はマセルム自体を、様々な階級の人々が行き交う通りから隔絶された富裕層用の販売所と見做す可能性を生じさせている。
マセルムに属さない食料品店舗tabernaeでも魚を売っていた。そこには石材で出来た養魚池があり、魚を維持したり洗浄したり、塩漬けにしたり、魚醤にした。魚醤は丸い木桶でも作られていた。
マセルムにせよ孤立した店舗にせよ建造物の所有者は資産家であり、そこで商売をする人はテナント料(年に一回。7月支払い)を支払っていた。
路上販売は、テナント料を支払えない商人あるいは生活拠点を漁村に持つ漁師の販売方法の一つだった。大抵日陰のある柱廊玄関や大型の公共建造物の近くの路上で販売していた。モザイク画の一つには地面に座って魚を売る商人の様子が描かれているが、魚の干物か開きを串に刺して売っていたように見える。
都市の路上に石積みのベンチがあったことは知られている。
ベンチには少なくとも二種類の傾向があり、一つは、邸宅前のベンチであり、貴族が朝の礼拝をしている間、彼の庇護を受けている平民たちが待機していた。もう一つは飲食店やパン屋の前、そしてマセルム内に置かれたもので、こちらは商品を待つ客や食品の消費、あるいは休憩のために人々が座った可能性がある。ベンチは基本的に夏の日差しを避けるため、北向きに設置された。
少なくともポンペイの庶民向け高層住宅において、キッチンに類するものは発見されなかった。
しかし同様に海に近いヘルクラネウムの下水道cardoVで発見されたウナギの骨の史料は、インスラに住む庶民が調理されたウナギを食べていた可能性を示している。下水道は4階建ての高層住宅に面していて、その一階部分にはパン屋やワインショップがあった。
しかし古代ローマの文献は調理器具に触れることも無く、高層住宅における調理も確認できない。一方、マルティアリスはインスラ住民の所有するテーブルやボウルの存在に触れていて、彼ら庶民が店舗tabernaeや路上で調理済みの食材を購入してテーブルやボウルに載せた可能性がある。
既製の食品の販売は、セネカが風呂屋で聞いたソーセージ売りの呼び込みや、マルティアリスの記す茹でたひよこ豆の売り手で示されているが、手軽に食べられる魚料理というものは確認できない。
またcardoVの史料自体が骨の存在を示すため、既製品として加工されたものを購入していたとしても少なくとも発見された魚に限れば骨を排除しない干物、塩焼き、煮付けその他の加工品だったかもしれない。
シンプルな推論として海沿いの町であれば庶民も当然のように新鮮な魚を食べていた。特に漁師であればその傾向は強かっただろう。内陸では塩漬けの小魚が庶民向けで、魚醤は庶民から富裕層まで利用していた。