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01.古代ローマでウナギを釣る

 ヨーロッパウナギの特徴は日本のウナギに近い。寿命は雄が6年から10年で、雌が9年から20年。

 彼らは秋口に川を下って冬から春にかけてサルガッソーに近い海域で産卵する。ウナギの幼生は海流に乗り、一年かけて北海沿岸や地中海沿岸、そしてバルト海沿岸に辿り着く。それから3ヵ月かけてシラスウナギに育ってから淡水での生活を始め、成魚になると海に帰って産卵し、そのまま死ぬか一部は再び川に戻ってくる。

 今から一億年前、パンゲア大陸が引き裂かれた後にウナギの祖先が現われ、そして21世紀までいくつかの種が存続していた。


 アリストテレスはウナギが泥から生まれると考えていて、ローマ人も同様に考えていた。卵や産卵行動が確認できなかったためだ。地球の人々がウナギの産卵地をほぼ特定したのは20世紀になってからだった。



 ウナギは川や湖、そして海で釣ることが出来る。

 古代においてスティモニコス湾やコパイス湖のウナギが大きくて太っていると評されていて、シラクサの海やポー川河口、ヴェローナのミンチョ川に膨大な数のウナギの群れがいたという。


 古代の人々も罠や投網によって捕まえていた。

 日本の罠は竹で作ることが多いが、ヨーロッパには竹が無いので藤の枝で細長い籠を作った。船上から綱を付けた藤の籠を海中に沈めているモザイク画が残っている。罠は早朝に設置された。

 聖書でシモンとアンデレが行っていた投網はより一般的な漁法である。モザイク画に描かれる投網の様子には、ウナギ科の魚が描かれているものもある。小型の網は1-2人で水中を投げ入れて引き上げたり、漁船の後ろに取り付けて曳航した。大がかりなものもあり、こちらは船上から漁師が網を広げ、岸にいる引き役たちが網を引っぱった。古代ローマの遺構において漁業用の投亜麻製の網の遺物は殆ど残っていないが、底に取りつけられていた石の重りはときどき発見されている。

 古代ローマの漁船は絵画の上では2,3人乗りの典型的な木造ボートで、釣った魚を入れるための籠も用意されていた。手漕ぎの船もあればマストを持つ船もあったが、いずれも小型だった。

 網を投げる前には撒き餌をした。ウナギは夜に餌を食べると考えられていたから、ヨハネ福音書にある夜間の漁も行われていたのだろう。


 また一本釣りを描いたモザイク画や、青銅や鉄で出来た釣り針の遺物も発見されている。一本釣りで吊り上げたときは箕ざるで掬いあげた。

 漁業技術者には、他にも潜水士urinatoresがいる。彼らはモザイク画において主に魚を獲っていたように見えるが、漁師とは別の職業として区別される。文献において彼らは戦時の偵察や水没遺留品の回収といった業務を委任されていた。

 槍やトライデントも用いられた。ストラボンの言及するボラの捕まえ方のように、泥を掘ってトライデントで突き刺したかもしれない。このとき必ず殺傷するためすぐに加工する必要があった。今でも知られているように内臓を取ることで保存性が上がることは知られていた。内臓は魚醤の主要な材料になるが、処理場ではなく船上で処理した魚の内臓を利用したかは疑わしい。

 産卵期になる前のウナギは冬場に泥の中に潜って冬眠するため、古代ギリシャのアリストテレスはプレアデス星団が見える時期に、泥をかき混ぜることによってウナギを捕まえる方法を提案している。

 他にもとても奇妙な漁法として、アイリアノスは羊の腸をウナギに食らいつかせ、腸を膨らませて捕まえるウナギ釣りを説明している。


 上記のものよりはるかに大規模なものとして潮の満ち引きを利用して捕らえる漁法も昔から行われていた。ラグーンを石積みで囲う設備はB.C.2cからA.D.1cまでのコサ港の遺跡などに見られる。

 石積みで囲われた汽水域のラグーンでは、魚の捕獲をしていただけでなく餌を撒いて飼育していた。アテナイオスによればウナギは日中泥に潜っているので、夜中に餌係が餌を与えていたという。そして魚たちが産卵のため海に向かうとき、漁師たちは海に繋がる水路を仕切りで塞いで漁獲した。浅瀬の囲いの中でウナギに餌をやることはアリストテレスも言及している。

 ヨーロッパウナギが産卵のために大挙して川から海に向かうのは秋で、ウナギは群れとしての行動は取らないが、決まった時期に産卵するために結果的に群れとなる。プリニウスは10月には浅瀬に1000匹ほどのウナギの群れをいくつも見ることができたと説明している。

 大規模な石積みは行政機関によって建造され、漁業権は契約により漁師にリースされたかもしれない。



 一般的にローマ時代の漁師は貧しかったと考えられている。奴隷の漁師と自由民の漁師がいたが、プラウトゥスによれば奴隷の漁師は釣果に関わらず主人から施しを受けた。奴隷の漁師は主人のヴィラ(田舎の別荘)に帰属していて、港町や漁村で暮らす漁師は大抵自由民だった。

 コサの港は1世紀までに衰退し、その後の海辺は3世紀までヴィラの主人の下に属す漁師によって運用された。


 港町や漁村の漁師たちは様々な職業集団と同様にコレギアと呼ばれる職業組合を形成していた。

 コレギアは有償の地域内同業組合で、共同体の遺族の葬儀費用の負担や記念碑の設立、懇親会の開催やビジネスパートナーシップの締結、選挙の後援に関与した。彼らは漁法毎に異なる組合を作っている一方で、オスティアの碑文によれば潜水士や魚屋と結びついていることもあった。後者は協力関係にあり、競合しなかったのだろう。

 コレギアは必ず信仰対象の神を祀っていた。

 船乗りはネプテューン神やプリアーポス神、イシス神に海の安全を願ったかもしれない。海が荒れていれば船に乗らない方が良いとされていたが、緊急避難用の小屋が設けられていることもあった。

 組合化することによって漁師たちは共同で漁業をすることが可能になり、自由に或いは政府の管理下において遠洋漁業も行われたが、基本的には沿岸や湖で魚を釣っていた。



 釣った小魚の多くは、各地にある加工場によって魚醤に変換されるか塩漬けになるか、または干物になった。そして一部の新鮮な魚は漁師自身が持ち込むかまたは漁師と縁故のある魚商人が買い取って、都市の市場で販売された。

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