公爵家令嬢は悲しみの淵に立つ1
残酷な描写があります、苦手な方はご注意いただけますと幸いです。
放課後、レインとの待ち合わせ場所に私は向かった。彼女は冬が近づき木の葉が舞い散る木の下で、近づく私をじっと瞬きもせずに見つめている。その瞳に見つめられるとなぜか背筋に悪寒が走った。……昏い色だ。なにかを失った者が宿す、昏い瞳の色。
フランに助けてもらうまで、私が宿していたその色だ。
「ヒーニアス王子を返してください、お義姉様」
向かい合って開口一番、レインはそう言った。
……馬鹿らしいわね。あんな人、あげられるのならあげたいわ。しかし残念ながら彼と私は王家と筆頭公爵家の盟約により定められた、婚約破棄しようのない婚約者同士なのだ。
「レイン・エインワース。彼は私の婚約者で、貴女にあげた覚えは一度たりともないのだけれど? その心を勝手に奪ったのは貴女、彼の心を繋ぎ止められなかったのも貴女。あるべき場所にすべては戻っただけよ」
ヒーニアス王子にまったく未練はない。だけど今までの意趣返しがしたくなってそう言ってみる。するとレインの顔は怒りか、羞恥か。私には理由はわからないけれど……真っ赤に染まった。
「この前は彼に優しくしろと言ったり、今度は返せと言ったり。レイン、貴女の行動の意味が私にはわからないわ」
「それはっ……」
「私が多少気持ちを傾けたところで、彼を奪い返される心配はないと思っていたの? 傲慢ね」
私は、容赦せずレインを責め立てる。レインの瞳は潤み、憎々しげな視線が私を射抜いた。
……今までの溜飲が下がるかと思ったけれど。そうでもないわね。早くフランが迎えに来ないかしら。想像以上にどうでもよくて、私にはどうしようもないことだったわ。
「王子は……私を妻にすると、約束してくれたのに……」
レインの言葉に私は瞳を大きく開いた。レインはエインワース公爵家の養女だけれど平民の出である。王家とエインワース公爵家の婚約で一番重視されているのは、高潔な血統同士の繋がりを介した結束だ。つまり私とレインをすげ替えることは……不可能なのに。
私が事故などで死んでレインしかエインワース公爵家に子供がいない、ということになればまた別の話なのだろうけど。ヒーニアス王子もいい加減なことを吹き込んだものだ。
「そんな閨の戯言を信じたの?」
私は思わず、呆れたような声を漏らしてしまう。
この子は気持ちさえあれば王子と結ばれ、王太子妃に、ひいては未来の王妃になれると。そんな夢物語を本当に信じていたのか。そういう意味では、少しだけ気の毒ね。
けれどその場合……私のことは、どうするつもりだったのだろう。愛がそこにあるなら仕方ないと、身を引いて愛妾になるとでも思ったのかしら。そんなことはできるはずがないのに。
「でも王子は、約束してくれて……! それに、私のお腹には……」
そう言ってレインは白く美しい手で自分の腹を擦った。
ああ、もう。あの男は……なんてことをしてくれるのよ。レインの発言に一瞬にして眩暈がする。
二人がそういう関係にあるのだろうとは薄々思っていたけれど。レインを愛妾にする気はない、と断言していた王子はまだこのことを知らないのだろう。
「……ヒーニアス王子に、子供のことを話して貴女をきちんと愛妾にするようにと伝えておくわ。私にできることはそれだけよ」
私はそう言うと、レインに背を向けた。フランはまだ迎えに来ていないけれど……。これ以上レインと話していると、頭がおかしくなりそうだった。
「妻にしてもらえないなんて……! そんなの、愛されていないみたいじゃない!」
レインの絶叫が背後から突き刺さる。
愛しているから妻に据える、とか。貴族の結婚はそんな単純な話ではない。元平民のレインには理解しがたい感覚かもしれないわね。
……本当に面倒。
そう思いながら足を踏み出した時。
背後から、人のぶつかる気配がした。そして背中に走る鋭い痛み。
反射的に振り向くと、そこには血に濡れた、銀色のナイフを持ったレインが立っていた。そして腹部に、もう一刺し。
――ああ。レイン、たしかにこれが唯一の正解ね。私が死ねば、貴女は王太子妃だわ。
権力を欲するお父様は真実を伏せ、私を事故死の扱いにしてレインを王家に嫁がせるだろう。この選択はレインにとって最適解だ。
私の人生は……愛も、命も。レインにすべてを奪われるためにあったんだろうか。
流れ出る血。激しい痛み。薄れていく意識。その中で私はぼんやりと思う。
ごめんなさい、フラン。貴方の言うことを聞けばよかった。そうすればこんなことにはならなかったのに。
――フラン。
死ぬ前に貴方に……会いたい。愛してるの、貴方だけを愛しているの。
「マーガレット!」
フランの声がして。レインが、視界から消えた。視線を動かすとレインは地面に蹲っている。フランが、突き飛ばしたのかしら。そんなどうでもいいことを私は考えた。
「マーガレット!!」
体が抱き上げられ、名前を必死に呼ばれる。そして視界いっぱいにフランの顔が飛び込んできた。よかった……最後に貴方に会えた。
「フラン……」
そっとフランの頬に手を伸ばして撫でると、彼の頬に紅い血が付いてしまう。ああ、貴方の顔を汚してしまったわね。ごめんなさい。
「愛してる、の」
私は絞り出すように言葉を紡いで、フランに微笑んでみせた。
「……マーガレット、喋らないで。すぐ医者に連れて行きますので……!」
今まで見たことがないくらいに、フランが取り乱している。それが私を心配してだと思うと、なんだか嬉しくなって。いつものように笑おうとすると、口の中に濃い血の味が広がって上手く笑えない。フランに触れた指先の感覚が、少しずつ無くなっていくのが、とても悲しかった。
――そして私の意識は、闇の中へと落ちていった。
乙女ゲームのシナリオが狂った末に起きたこと。