公爵家令嬢は従者と箱庭で恋を育む2
「マーガレット。欲しいものはありますか?」
長椅子の上でフランの膝に頭を乗せて微睡んでいると、彼にそんなことを訊かれた。……欲しいもの。難しいわね。大抵のものは持っているもの。
そして一番欲しかったものは今、彼に与えて貰っている。
「……貴方の人生くらいしか、欲しいものはないわね」
「……マーガレット」
私の言葉にフランは困った顔をする。少し悲しそうな彼の困り顔。それを見るのは嫌いじゃないけれど、やっぱり笑っていて欲しい。
「冗談よ。貴方にも、私にも家がある。それを守るのは貴族としての義務ですもの」
万が一、フランが私を心から愛してくれて。私と駆け落ちでもしたら……。エインワース家は莫大な賠償金とレインを婚約者に立てることで挽回を図れるかもしれないけれど、フランのハドルストーン家はきっと取り潰されてしまうだろう。
その罪科への処分は彼の親類縁者にまで及ぶかもしれない。未来の王妃を攫うということは、それだけの重罪だ。
家や、身分や、将来の国母という重い立場。私は自分が必要としていないものばかりに囲まれている。だけどフランの周囲にあるのはフランにとって必要なものだ。
それを捨ててまで一緒になって欲しいとは、口が裂けても言えない。
「どこかの伯爵家の娘として生まれたかったわ。そしてこの学園で、馬鹿なマーガレット・エインワースの従者をしている貴方に出会って恋をするの」
そんな馬鹿らしい妄想が口からつい零れてしまう。だけどそんな風に生まれたかった。
身を起こしてフランにそっと抱きつくと、抱き返されて背中を撫でられる。温かい、近頃もう馴染んでしまったフランの温かさだ。
「そしてね、貴方に言うの。『好きになってしまったんです』って。ふふ、そうしたら貴方は、どんな顔をしたんでしょうね」
「マーガレット……その」
困った様子の彼は何度か私の額に口づけ、優しく髪を撫でたまま沈黙した。彼は不器用だから、こんな戯言にも上手な返しの言葉を言えずに詰まってしまう。そんな彼が私は好きだ。
「相変わらず不器用ね、フラン。そんな貴方が大好きだけど」
……可愛い、大好き。自分よりも少し年上の彼にそんなことを思う。そっと身をすり寄せ、彼の綺麗な手を取って指に何度も口づける。するとフランがくすぐったそうに笑った。
「マーガレットはずいぶん甘え上手になりましたね」
「こんな私は、フランにだけよ」
そう、フランにだけ。私の心は、一生この人のもの。ヒーニアス王子と婚姻をしても、彼の子供を産むようなことになっても。それは変わらない。
――私の卒業まで、あと半年。
この関係はそれまでのもの。終わりを思うと心が冷えて、死にたいような気持ちになるけれど。私のわがままに彼をずっと付き合わせるわけにはいかない。
……私がヒーニアス王子の妻になった後。フランが妻を娶ったら、きっと悲しくて泣いてしまうわね。だけどその時はたくさんの贈り物をして、彼の幸せを祝うのだ。醜いマーガレット・エインワースには、もう二度と戻らない。
その時、部屋の扉が遠慮がちにノックされた。
誰なのかしら、大事な時間を邪魔するのは。そんなことを思いながらフランから身を離し、従者と令嬢の距離へと戻る。フランは扉の方へ向かい。少し隙間を開けて二言三言交わした後に、眉を顰めて帰ってきた。
「……レイン様です」
意外な珍客に、私は思わず目を瞠る。私を恐れているレインが今までこの部屋を訪れたことはない。そして一生訪れることはないと思っていた。
「入りなさい」
少し居丈高に発した私の言葉の数秒後に、レインが恐る恐るといった様子で部屋へと入って来る。
「……なんの用なの?」
思わず棘を纏う口調でそう訊ねると、彼女は一瞬身を震わせる。こんな口調になるのは仕方ないじゃない。貴女が原因で私は何年も泥の上を這いずるような、みじめな気持ちで生きてきたのだから。
久しぶりにまともに見たレインの姿を上から下まで眺める。相変わらず……美しい女だ。艶のある水色の髪。抜けるように白く美しい肌。大きな青の瞳。人形のように狂いのない、整った愛らしい顔立ち。男の庇護欲をそそる儚げな表情。
その姿を目にしても昔のような激しい苛立ちは覚えないけれど……できれば目にしたくもなかったわね。
「お義姉様に、お願いが」
レインは私に潤んだ目を向けると、そう口にした。
「お願い? そういうことはお父様に言って。私に言っても、仕方ないでしょう?」
お父様はレインに甘いのだから甘えればなんでもきいてくれるだろう。……そういえば父は、長期休暇で帰宅した時、私の容姿の変化に目を丸くしていたわね。最早そんなこと、どうでもいいのだけれど。
「お義姉様にしか、できないことなんです」
――私にしか? 意味がわからないわ。
「言ってみなさい、レイン。きいてあげるかどうかは、わからないけれど」
私は投げやりな口調で言う。正直なところ、義妹のお願いなんてどうでもいいし早く帰って欲しい。
そんな気だるげな私の様子にはかまわず、レインは決然とした表情で口を開いた。
「……ヒーニアス王子に、もっと優しくしてあげてください。近頃王子はお義姉様が冷たいとよく嘆いておられるのです。お義姉様は彼の婚約者ではないですか! ちゃんとその自覚を持ってください」
レインの言葉に、頭を殴られたような衝撃を受けた。貴女、なにを言っているの?
私はたしかに王子を無視しているけれど。原因はレインとヒーニアス王子にある。その原因がのこのことやって来て、彼に優しくしろ? 自分勝手にもほどがないかしら。
しかも王太子を『彼』だなんて。ただならぬ仲でございます、と自ら白状しているようなものだ。
「……私は婚約者としての役目はきちんと果たすわ。けれど良好な関係を築くことを最初に放棄したヒーニアス王子に、私のなけなしの情や気遣いを注ぐつもりはないの。そもそも政略結婚に愛情は不要でしょう? レイン、王子へ愛情を注ぐ役割は彼からの歓心を得ている貴女が担いなさい」
心は冷えているのに、口は勝手に言葉を紡ぐ。
――貴女たちは、勝手ばかりだ。
「お義姉様……っ」
「婚約者の自覚を持て、だなんて。私から婚約者を奪った貴女が口にしていい言葉ではないと、どうして理解できないの? 今はもう、そんなことはどうでもいいけれど。奪ったのなら最後まで責任を持ちなさい」
自分勝手な偽善者に早くこの部屋から去って欲しい。
ここは私とフランの、美しい箱庭なのだ。これ以上外の汚れを持ち込んで欲しくない。
「わ、私は……。奪うだなんて、そんなつもりはなかったんですっ……」
偽善者は、ぽろぽろと涙を零す。ああ、本当にうんざりだ。
「貴女たちの関係を私は邪魔しないから、勝手に貴女たちだけで愛を育んで。貴女が愛妾になって王子の愛情を一身に受けようと、王子の子供を産もうと、その子供が王位につこうと。私にはどうでもいいことなのよ」
酷い頭痛がする。呼吸が上手くできない。早く、私の前から消えて。
「レイン・エインワース。私をこれ以上苦しめないで……ここから出て行きなさい」
語気を荒げて言うと、彼女はようやくのろのろと部屋から立ち去った。私は大きな息を吐いて……長椅子にもたれかかる。なんだか酷く、疲れてしまったわ。
「……王子は、お嬢様のことが惜しくなったようですね。気を削がれている王子を見て、レイン様は不安になっているのかもしれません」
ぽつり、とフランが漏らす。
「だったらどうして、レインは私の心が王子に向くよう仕向けるのかしら……意味がわからないわ」
「献身で王子の心を打とうとしたのではないかと。……彼女は、無意識かもしれませんが」
本当に身勝手な。勝手に惜しくなったり、勝手に愛を引き戻す道具にされたり。
「……疲れたわ、フラン」
大きく息を吐き、彼に両手を伸ばす。すると長椅子に腰を下ろしたフランが、優しく慰めるように抱きしめてくれた。
ゲームレインさんの脳内は、恋と愛のことしかないのです。