ヒロインだった女の独白(レイン視点)
レインの視点になります。
「君との関係は……そろそろ終わりにしないとね」
天使のような優しい微笑みを浮かべながら、氷のような冷たい口調でヒーニアス王子が言った。
その言葉に私は虚を衝かれ、呼吸が止まる。
――どうして、そんなことを言うの。
口を開くけれど、言葉は上手く音にならない。ヒュッと漏れ出た呼吸の音だけが耳に残った。
少し前までは。私とヒーニアス王子の関係は順調だったように思う。義姉に暴言を吐かれ、時には暴力を振るわれる私を王子は救ってくれて。私の境遇に同情し、優しく慰めてくれた。
愛していると言ってくれたし、君を妃にしたいと何度も言ってくれた。
なのにどうして、いまさらそんなことを言うの。
どうして……ううん。原因はおそらく義姉だ。
近頃、急に品行方正になり容姿も美しく輝き出した義姉。ヒーニアス王子はそんな義姉に明らかに興味を持ち始めた。けれど、あんなに私を愛していると言ってくれたのだもの。それは一時の気の迷い。そう、信じていたのに。
意地悪な人は、私に言った。
『義姉の婚約者に手を出すなんて。なんて品性の下劣な人なの』
だけど私はこう思う。
『互いに惹かれ合ってしまっただけ。それは……いけないことなの?』
そう。私たちはたしかに惹かれ、愛し合っていた。
そして……ヒーニアス王子は明らかに義姉を愛していなかった。
そのはずなのに、ヒーニアス王子が急に別れの言葉なんて言うから。……私は、どうしていいのかわからなくなってしまう。
彼のために出来る限りの努力はした。けれどヒーニアス王子のお心は日に日に離れて行くばかり。どうして? わからない。義姉の方がそんなにいいの?
彼には伝えそびれてしまったけど、私のお腹には子供もいるのに。
「私との将来を考え直してください」
私は彼に、今日もそう言った。ヒーニアス王子はその美しい緑の瞳を細めて私を見つめる。
「ごめんね、僕には婚約者がいる。あちらが強く輝き出した今。血統に劣る君を娶る意味はないよね? それに君は。愛だの恋だのばかりを口にして……とても退屈だ」
――血統に、劣る。
たしかに私は、平民の出だけれど。それでもいいと、貴方は言ってくれたじゃない。
義姉が、いなければ。
心をじわじわとそんな気持ちが蝕み始める。義姉さえいなければ、ヒーニアス王子の愛は戻ってくるはず。ええ、きっとそうよ。
+++
「レイン・エインワース。彼はそもそも私の婚約者でしょう。貴女にあげた覚えは一度たりともないのだけれど? それを勝手に奪ったのは貴女、彼の心を繋ぎ止められなかったのも貴女。あるべき場所にすべては戻っただけよ」
『王子を返して』と言った私に、義姉はその白いかんばせに不快そうな表情を浮かべながらそう答えた。眉を顰める義姉は腹が立つくらいに美しい。
昔からそうではあったけれど。やっぱり義姉は意地が悪い人だ。……なんの権利があって、私から王子を奪うのだろう。
彼女は王子を愛していない。そんなの態度を見ればすぐにわかる。だったら王子を愛する私に、返してくれてもいいのに。
「……ヒーニアス王子に、子供のことを話して貴女をきちんと愛妾にするようにと伝えておくわ。私にできることはそれだけよ」
愛妾? 愛妾なんて……嫌。だってそんなの、代わりがきくものじゃない。愛している人に唯一として愛される幸せな日々を送りたい、それだけしか私は望んでいないのに。どうして義姉はわかってくれないの?
彼女はいつも私を愛妾にと言う。彼を愛していない貴女が婚約者の座を降りればいい、それだけの話じゃないの?
「妻にしてもらえないなんて……! そんなの、愛されていないみたいじゃない!」
やっぱり義姉には。
――いなくなってもらわないと、ダメなんだ。
義姉は踵を返すと私の元から去ろうとする。私は……隠していたナイフを取り出して。
彼女の背中に体重を乗せてぶつかった。
肉の裂ける、嫌な感触がする。だけどこれは必要なこと。
義姉がゆっくりと振り返る。その表情は驚愕に、歪んでいた。
無防備なお腹にナイフをまた突き刺す。さきほどよりも柔らかな感触が手に伝わった。
早く私の前から消えて。私は……彼の愛を取り戻す。
+++
義姉は一命を取り留めたらしい。彼女の従者がやって来て、すぐに侍医のところへと連れて行ったから。けれど彼女は怪我が原因で子供ができない体になっていて。……ヒーニアス王子の婚約者の座から、降りることになった。
……よかった、これで。私が王子の婚約者。嬉しい、やっと愛される日々を取り戻せるんだ。
「私、貴方の婚約者になったんです」
「……うん、聞いているよ」
私はヒーニアス王子に満面の笑みで言う。けれど彼はにこりともしない。どうして? 義姉はもういなくなったのに。
「ねぇ、レイン。僕のお気に入りを壊したのは、誰だろうね?」
彼の言葉に、私の心臓は凍りついた。お義父様は言っていた。『あの件は事故として処理をした。一部の者以外に真相を知るものはいない』と。だからヒーニアス王子は知らない。そのはず。
それにあれは、本当に仕方なくだったのだし。そうよ、私はなにも悪くない。
「お義姉様の事故は……お気の毒だったと思います」
ばくばくと妙な音を立てる心臓を押さえ、私は平静を装いながら言葉を紡いだ。
「でも、きっと。これが運命だったんです! ヒーニアス王子と私が……結ばれるために必要なことだったんです」
彼は私の言葉を聞いて顔を顰める。どうしてそんなに、不快そうな顔をするの?
「……君は本当に空っぽだね。愛? 恋? 君の中にはどうしてそれしかないんだ? そこまで行くともう、狂っているとしか言いようがないな」
ヒーニアス王子は大きく溜め息をつくと、私から視線を逸らした。
愛や、恋。
それはとても、大事なことでしょう? おかしなヒーニアス王子。
――なにかの歯車が、狂っているような気がする。
でもそれは……きっと気のせいだ。
+++
「本日より、貴女の従者となりました。フラン・ハドルストーンです」
その日、私の前に現れたのは……義姉の元従者だった。
細い、開いているのかよくわからない目。整っているのだけれど、どこか目立たない顔立ち。礼をした彼が頭を上げると、綺麗な黒髪がさらりと揺れた。
私の罪の現場を見ていた人。どうしてこの人が私の従者に? わからない。義姉からの嫌がらせなのだろうか。いや……義姉はまだ目を覚ましていないと聞いている。
彼を見ていると手に、義姉を刺した時の感触が蘇る。あれは、嫌な感触だった。
「よろしくね、フラン」
彼に向かい合い、微笑んでみせる。すると彼の眉間に小さく皺が刻まれた。
「……よろしくお願いします。レイン様」
フランが私のことをどう考えているのかはわからない。けれど好意的には見ていないのだろう。義姉のところに駆けつけた彼は、鬼気迫る形相をしていた。義姉の幼少期から一緒にいたようだから、二人は仲がよかったのかもしれない。
……罪悪感がないわけじゃない。だけど、愛のためには必要だったの。
フランもきっと、わかってくれるよね。
+++
その日。私はクラスの令嬢たちに呼び出され……口汚い罵りを受けていた。
以前はこういうことがあれば、ヒーニアス王子が助けてくれた。けれど最近の彼は忙しいようで、不満を訴えると困ったような顔で『ごめんね、忙しくて』と謝られる。それが私はとても不満だ。
……どうして私は昔からこんな目にばかり遭うのだろう。
長い期間義姉からのいじめを受け。学園に入ると『庶民のくせに』とか『貴族としてなっていない』とか。様々な理由でこうして令嬢たちに責められて。
そのいわれなき行為に、私の心はいつも傷つけられてばかりだ。
……私はなにも、悪いことなんてしていないのに。
「……貴女なんかが、未来の王妃になんてなるべきじゃないのよ」
令嬢の一人が目をつり上げてそう叫ぶ。彼女はヒーニアス王子に恋をしている令嬢の一人だ。じゃあ誰が王妃にふさわしいと言うのだろう。
「じゃあ貴女が、ふさわしいの?」
純粋に疑問で。きょとりとしながら問うと、彼女は顔を真っ赤にして……。私に平手を振り下ろした。
小さな炸裂音のようなものが響いて、体が傾ぐ。そのまま私の体は地面に叩きつけられた。
「……ぅ……」
お腹が、痛い。起き上がれない。蹲って起き上がらない私を見て、令嬢たちの焦る気配がした。ねぇ、誰かを呼んで。お医者様に連れて行って。
脂汗を垂らしながらそう願うのだけれど、彼女たちはせわしない足音を立てながらどこかへ立ち去ってしまう。
どうしよう。助けて、ヒーニアス王子……。
しばらく蹲っていると、フランが駆けつけてくれた。
彼に抱き上げられて侍医のところに連れて行かれる最中に、私の意識は遠ざかって……
……目が覚めると、お腹に赤ちゃんがいないと。侍医とお義父様に告げられた。
屋敷で療養していると。お見舞いにヒーニアス王子が来てくれた。
「ヒーニアス王子……」
「や、大変だったね」
ああ、来てくれた。私のことを心配してくれているんだ。彼の心には……ちゃんと愛がある。そのことに私は、安堵を覚える。
彼は少し話をした後に部屋を出て行こうとする。もう少し、いて欲しい。そんな願いを込めて彼の服を引くと、苦笑をされ手を外された。
「……公務で忙しいのでね。愛する人の大事な仕事を、君は邪魔するような子ではないよね?」
そう言って彼は優しく微笑む。けれどその笑顔は……どこか遠いところにある気がした。
……ヒーニアス王子。大丈夫よね。貴方の心は、私にあるわよね?
+++
義姉が目を覚まし……結婚したらしい。
相手は私たちの従者だったフラン・ハドルストーンだそうだ。あの人、伯爵家の跡取り息子だったんだ。取り立てて彼に興味を持たぬまま、日常会話以外することもなく。彼の私の従者としての任期はすぐに終わってしまったから。それを聞いて少し驚いた。
大きな傷があり子を望めない義姉と婚姻するなんて。フランは義姉のことを、相当に愛しているのかもしれない。
……羨ましいな。
一瞬そんな気持ちが湧く。だけど私はそれを頭を振って振り払った。羨ましくなんかない。……私だってヒーニアス王子と婚姻するのだから。
義姉に幸せだと、証明しないと。なぜかそう私は思った。
「お義父様。式にはお義姉様も呼びたいわ」
私がそう言うと、お義父様は苦い顔をした。近頃、お義父様も私に冷たいような気がする。どうしてかしら。たぶん気のせいだろうけど。
式へ来た義姉は。……とても幸せそうに笑っていた。
それは驚くほどに幸せそうな笑顔。色々なものをなくしてしまった者の笑顔とは、とても思えないものだった。
それだけ彼女は、傍らの男に愛されているのだろう。
……じゃあ私は?
ぎゅっとヒーニアス王子の腕にしがみつく。見上げた彼の顔は……いつもの美しい笑顔で。
だけどその笑顔は私ではなく、来客にばかり向けられていた。
+++
婚姻を結んで一年以上が経ち。ヒーニアス王子が夫婦の寝室へと来なくなった。
「ねぇ、王子は今日も来ないのかしら?」
私は身支度を整えに来たメイドに訊ねてみる。すると彼女は曖昧な笑顔を浮かべた。
「……お忙しい方なので」
そうね、そうよね。王太子はご公務が多いから、仕方ない。私は今日も一人で寝台に横になる。
それからしばらくして、義姉が出産したと聞いた。
――どうして。産めない体になったのでは。
私は激しく動揺した。お義姉様はずるい。私は一人で寂しい夜を耐えているのに、どうして貴女は幸せそうなの? 私も、愛の証が欲しい。ヒーニアス王子、早く私のところに来て。
……けれど王子は夫婦の寝室に来てくれず。公の場で会うことはあっても、個人的な用事で会う回数は目に見えて減っていく。
そして私は、また噂を聞く。信じたくない……もっと嫌な噂。
――ヒーニアス王子の愛妾に、子ができたと。
愛妾? いつの間にそんなものが? だから私のところへ彼は来なくなったの?
「ヒーニアス王子! どういうことなの!?」
彼のところへ行き問い詰めると、ヒーニアス王子はその美貌にあからさまに不快そうな表情を浮かべた。
「……君に責められるいわれはないのだけれど。産めなくなったことを隠して輿入れするなんて、やられたね。しかも産めないと言われ婚約破棄したはずの姉上は出産したそうじゃないか。エインワース公爵家はいくつ王家に隠し事をしてるんだろうね?」
――産め、ない?
ヒーニアス王子の言葉に私は呆然とする。そんな私の表情を見て、彼は小さく鼻で笑った。
「ああ、君は知らなかったのか。……詳しくは君のお父上にでも訊くといいよ」
嘘よ、そんなの認めたくない。
そんなことが本当だったとしたら。これから……私はどうなってしまうの?
「私を……捨てたりしませんよね。ヒーニアス王子。だって貴方は私を愛して……」
「愛してなどいない。僕はね、数年前から君にうんざりなんだ。これでやっと、君と縁が切れそうで嬉しいよ、レイン」
そう言って彼は。数年ぶりに見るような晴れ晴れとした笑顔で笑った。
愛されたい。それだけなのに、どうして上手くいかないの?
歯車はどこから狂ってしまったのだろう。きっと義姉が美しくなったあたりから……狂ってしまったんだ。
私は義姉の顔を思い浮かべながら強く唇を噛んだ。
――私を捨てるなんて。愛してくれないなんて。
「そんなの、許さない」
そっと、髪飾りを髪から外す。その銀の煌めきは、あの日義姉を刺したナイフのようだった。
後ろを向いた、ヒーニアス王子に静かに近づく。
愛してくれない貴方なんて、いらない。
そんなヒロイン側からの視点。
悪役令嬢がレールから外れ、そこからの軌道修正がままならなかったヒロインの末路。
レインは依存先に影響されやすいので本編と番外の性格が違うのです。
この後はご想像におまかせしますということで…
次回からはフランとマーガレットの後日談を2話ほど。
そちらでこのお話は一旦完結となります。




