第三十四話 ラルムの決意
カシミルド達が森へ出かけた後、リリィの家の二階の一室にて、スピラルはアヴリルとメイ子をモフモフしながら、ラルムを観察していた。
ラルムは大分落ち着きを取り戻し、ベッドに腰かけ精霊に関する分厚い本を読んでいる。
荷物になるのに本を持ってくるとは、中々の本好きなのだろう。
しかし、ラルムは今にも泣きそうな顔をしている。
泣いている女性ほど、扱いに困るものはない。
スピラルはそう考えていた。
女性の涙を見ると思い出す。
スピラルは昔を思い返した。
自分が生まれ育った屋敷のことを。
◇◇◇◇
スピラルは、とある貴族のとある屋敷のメイドの息子として生まれた。
父親は知らない。
物心ついた頃には母とその屋敷のメイド達と暮らし、メイドの身の回りの手伝いをしていた。
メイド達は、幼いスピラルに優しく大好きだった。
母は屋敷の旦那様付きのメイドで、結構偉い立場のメイドだったらしく、週に三回は夜もスピラルの所に戻ってこなかった。
そんな時は他のメイドがスピラルに絵本を読んでくれたり、誰かしら一緒にいてくれたから、寂しいという事は一切無かった。
しかし、そんな優しいメイド達は、自室で良く泣いていた。
旦那様もその奥様も、とても厳格な人で、その息子は大層な乱暴者で、皆毎日叱られて、お仕置きされていたらしいのだ。
母はスピラルの前では泣かなかったけれど、たまに一緒に寝ているときに声を殺して泣いていた。
そんな時はいつも寝たふりをしたまま、母の体にギュッと抱きついた。
そうすると、母はスピラルを抱きしめてこう言った。「スピラルがいて良かった。生まれてきてくれてありがとう」って。
母が泣いているのは悲しかったけれど、スピラルの心はいつも母の愛で満たされていた。
でも、スピラルが五歳の頃に母は亡くなった。
母がいつも身に付けていたリボンを握りしめて啜り泣くスピラルを見て、奥様は嘲笑うように言った。
「お前が女だったら、命は無かったよ」
その時のスピラルには意味が分からなかった。
しかし、そのすぐ後にその意味を知ることになった。
スピラルは母の代わり……とまではいかないけれど、屋敷の仕事を手伝うようになった。
主な仕事は庭の掃除と廊下の雑巾掛け。
スピラルは毎日長い廊下を雑巾で駆け抜けた。
……そんなある日、旦那様とぶつかってしまった。
遠目でしか見たことの無かった……旦那様と。
旦那様の隣にいた顔見知りのメイドは、スピラルを見て小さく悲鳴を上げた。
その悲鳴で思い出した。
メイド達の涙を。
旦那様は何よりも恐ろしい人だと言う事を。
「お仕置きだな……」
低い男の人の声が頭の上から聞こえた。
スピラルはその声に恐怖し、瞳を固く閉じて体を縮こませた。
そんなスピラルを、メイドが震える手でつまみ上げ、旦那様の命令通り、寝室へと運んだ。
そこでスピラルはーー。
「きゃあっ!!」
ラルムの悲鳴で、スピラルは椅子から飛び上がった。
昔を思い出しボーッとしていたスピラルはその声で我に返る。
ラルムの方に目を向けると、窓を見て驚いているようだった。
窓辺には透けるような肌をした、水色の長い髪の女性が浮かんでいた。
そしてその女性は、まるで全身が霧で構築されているかの様に、壁に触れた部分のみ煙の様に消え、真っ直ぐに室内に入ってきた。
一瞬体が消えたと思うと、また女性の姿に再編成される。
ラルムは怯え、持っていた本を抱きしめ震えていた。
スピラルは、謎の訪問者をそれ以上ラルムに近づけまいと、行く手を阻んだ。
突然目の前に現れた小さな少年に、訪問者は驚いて呟いた。
「サラ……マンドラ……?」
「お前、サラマンドラっていうのか!? 何しに来た!?」
「いや……私はオンディーヌ。水の大精霊。その女にこれを渡しに来た」
オンディーヌはラルムの眼鏡をスピラルに差し出した。
ラルムが怯えている為、警戒していたスピラルであったが、よく見るとオンディーヌから敵意は感じられなかった。
むしろ清く澄んだ美しい瞳をしている。
スピラルはオンディーヌから眼鏡を受け取ろうとして、その手を下ろした。そしてラルムの方へ振り返る。
「ラルム。あんたが受け取れよ……」
「えっ……」
ラルムの瞳は不安と恐怖に満ちていた。
それでも、スピラルは両者の間から身を引いた。
これは、自分が受け取るべきではないと感じたのだ。
そして自分のベッドに腰を下ろし、アヴリルを抱き締めた。
◇◇◇◇
ラルムは目の前のオンディーヌに恐怖していた。
窓枠が凍りついている。
自分もまた冷たい湖に閉じ込められてしまうのではないかと思うと、震えが止まらなかった。
そしてまた死した精霊達の悲痛な声が、呪いの様に頭の中に甦る。
ラルムは、先程まで読んでいた、精霊について書かれた書物を抱きしめた。
昔から大好きな本だ。
そう、自分は精霊が大好きだ。
だった。ではない。
大好きなのだ。
なのにどうして私は……こんなにも憎まれる人間に生まれてしまったのだろう。
ラルムは涙を流しながら、オンディーヌに問いかけた。
「どうして……どうして精霊は人を憎んでいるのですか? そんなに私の事、憎いですか?」
「…………」
オンディーヌは無表情のまま、何も言わずにラルムに眼鏡を差し出した。
冷たくなった眼鏡をラルムは受け取った。
今朝の様な淀んだ空気はオンディーヌから感じなかった。
目の前の精霊は、ラルムの幻想通りに美しく輝いて見えた。
ラルムは気づく。やっぱり精霊が好きだと。
少し殺されそうになった位で怯えてしまっていた。
身も心も、弱い自分が情けない。
研究に失敗やリスクは付き物じゃないか。
「私は、精霊が好きです。それはもう……人間なんて比じゃない程に。人か精霊か選ぶなら、私は精霊を選びます。私は貴女の敵じゃない。私が精霊達の苦しみの原因を探ります。だから……」
「人間など信じられるものか。甘い言葉で惑わして、必要が無くなればすぐ捨てる。欲しいものだけ奪ってな」
「私はそんなことしない!!」
「……戯言を。穢らわしい……」
ラルムは本の一頁をオンディーヌに見せた。
「見てください。本に載っている精霊の森、そして精霊の絵です。子供の頃からこの絵に憧れていました」
「粗末な絵だな……」
「そうなんです! 現実の森はこんな物じゃありませんでした。もっと広くて深くてどこもかしこも精霊で輝いて見えた。まさに楽園……私は諦めません。あの森を守りたい。そして、精霊を守りたい」
「傲慢だな……身勝手な女、まさに人間。……ここはお前が触れていい場所ではない……私に殺されたくなければ、二度と来るでない」
オンディーヌはそう言い捨てると、ラルムの持つ本を凍らせ、霧のように消え冷たい風と共に去っていった。
ラルムが森の絵が描かれた頁に触れると、それはひび割れ、音を立てて砕け散っていった。
夢は叶わない。
そうオンディーヌから突き放されたような感覚に陥る。
ラルムは両手で顔を覆い静かに泣いた。
それでも、砕け散った幻想を前にラルムは決意を口に出す。
「私が調べます。精霊の憎しみの原因を……何かが起きている……そしてそれは、フォンテーヌ家が関わっているのでしょう……私が突き止めて見せます!」
ラルムはオンディーヌから渡された眼鏡の霜を拭き取り、掛け直した。
泣いてなどいられない。
フォンテーヌ家が関わっている事は受け止めきれないし、不安ばかりだが……ちゃんとこの目で真実を見なくては。
◇◇◇◇
スピラルは消えたオンディーヌを追いかけるように、窓から外を見回した。
外には誰かの影すらない。
ただ、窓辺に降りた霜が、先程のことが幻ではないと物語っていた。
ラルムは眼鏡を掛け直し、砕けた本を拾い集めていた。
無愛想で、でも意外と優しいお姉さんは、精霊という存在を心から愛しているようだ。
拒絶されても、諦めないらしい。
傲慢と言われたら、そうなのかも知れない。
でも、頑なに何かを信じ愛することは……スピラルには出来ない。
嫌われても愛せるなんて、そんな余裕は自分にはない。
スピラルは、肩に乗ったアヴリルを抱きしめてモフモフの背中に顔を埋めた。
お陽様の匂いがする。
もしもアヴリルに嫌われたら?
もしもアヴリルに殺されそうになったら?
そしたらスピラルは……。
俺は素直に殺されよう。そう思った。
◇◇◇◇
ラルムは本の欠片を集めていると、不安と悔しさが込み上げ、ベッドに突っ伏してまた静かに泣いていた。
今までの様子をずっとスピラルの隣で見ていたメイ子は、人型に戻りラルムの背中を優しく擦った。
ラルムは驚いて顔をあげ、メイ子と目が合った。
嫌われていると思っていたメイ子が直ぐ目の前にいて驚く。
メイ子は心配そうに、そして励ますようにラルムに話しかけた。
「眼鏡っ娘! 水の精霊は、とっても透き通った心を持っているなのの。感受性が強くて、心が傷つきやすい精霊なのの。……オンディーヌの心は相手の心を鏡の様に映して、相手の心に引き寄せられ共鳴しやすいなのの。だから、眼鏡っ娘がそのままの心でいたら、きっといつかオンディーヌに届くなの。諦めないで欲しいなの。納得行くまで、しつこい位にぶつかっていって欲しいなの!」
メイ子はそう言い切ると、にっこりとラルムに微笑んだ。
ラルムはメイ子の事を、体の大きさも話し方も幼く、まだまだ子供だと思っていた。
しかしメイ子は、大きな紫の瞳を優しく輝かせ、ラルムをしっかりと見つめ返してくれた。
癒しの魔獣は、体だけでなく、心も癒してくれたのだ。
いや、違う……癒しの魔獣だからではない。
きっとこの子だからだ。
「あ。ありがとう。メイ子ちゃん。私。諦めないから……」
ラルムはメイ子の小さな肩に顔を寄せて声を上げて泣いた。
メイ子はそっとラルムの背中を擦ってくれた。
ラルムはその優しさに涙を溢した。
軽率で傲慢で身勝手な自分を悔いながら。
しかしそれでも、ありのままの自分で、自分の美しいと思った者達に認められるように、そしてそれを守れるようになりたいと、心に強く誓いながら。




