第七話 精霊に愛される者
カシミルドの家から北側の森、結界境界線。
「むぅぅぅぅ。びぇーーーーん!! こわいなののーー」
メイ子の泣き叫ぶ声が森に響き渡る。
二本の銀色の角の先に、黒水晶の付いた指輪をいくつもはめて、結界に角を突っ込んでいる。
黒水晶からは、カシミルドから送られて来る魔力がどんどん溢れ、バチバチ音をたてて結界と魔力がぶつかり合う。
メイ子は大きい音が苦手だ。
バリバリ雷も大嫌いだ。
怖くて怖くて涙が止まらない。
「姉たまのために……メイ子も頑張るなのの。びぇーーーーん」
南側の結界境界線。
西のペシュ村から、南へと流れる川の近くにシレーヌはいた。
水を操れるシレーヌにとって、最高の戦場だ。
シレーヌは黒水晶の指輪を腕輪の様につけ、とても気に入っている様子だ。黒水晶からカシミルドの魔力が溢れてくる。
「クスクス。まだまだ来ますわ。でもここでちょっと結界に魔力を流し込むだけだなんて、少々面白くありませんわ。クスクス」
シレーヌはそう言うと川の上に浮かび、唄をうたう。
さざ波の様に細く優しく。
「水よ、我が友よ。我と共に唄おう。猛々しい戦慄の唄を」
川の水がシレーヌの足元で波立つ。
流れは滞り、シレーヌに吸い寄せられていく。
「水よ、我が友よ。我と共に行こう。荒々しく全てを連れて」
十メートル程の大波が川からそそり立つ。
シレーヌの唄声に誘導され、大波は一気に木々を全て押し倒しながら海へ向けて勢いを増した。
途中結界にぶつかり、濁流はダムの様にせき止められている。
結界がビリビリと音を立てて軋む。
その光景にシレーヌは気持ちを高揚させた。
「水よ。我が友よ。我と共に果てよう。精々たる大地を残して。――クスクス。もっと。もっとですのね」
カシミルドの魔力に魅せられてか、それとも、元々の性質か。
シレーヌは我を忘れたかのように、魔法を繰り出し続けた。
そしてさらに結界に追い討ちをかけた。
西側、ペシュ村との結界境界線。
いつも村から物資を届けてもらう小屋の近くだ。
この辺りは杉林が広がり、辺り一面杉の木ばかりで、物資を取りに行く度に迷子になることから、迷いの森とカシミルドが呼んでいる。
その杉林の真ん中辺り。
杉の木のてっぺんに佇む黒髪の少年がいる。
その姿はカシミルドと瓜二つだ。
少年は南の川の氾濫を目にし、ほくそ笑む。
「シレーヌちゃんは、やっぱヤベェなぁ。俺様も負けられねぇなぁ。ケケケッ」
少年はカシミルドの魔力が溢れる黒水晶を結界に投げ捨て、右手を陽にかざす。
そして右手に己の魔力を集中させる。
精霊達が周りに集まってくる。
久しぶりだが――イケる。
少年の瞳が金色に輝く。そして叫んだ。
「我が名はクロゥ。大地よ。起きろ、唸れ。その身を轟かせよ。俺が命ずる。本能のまま素直に従え」
大地が動く。
地の底深くから、何かに押し上げられるが如く、隆起し、うねりをあげる。
木々は大地にすがる力を失い左右へ寝そべっていく。
クロゥが立つ、杉の木一本を残して、ものの数秒で迷いの森は見晴らしの良い広い平野へと姿を変えた。
そしてそれと同時に――空が割れた。
正確には、空ではない。
透明なガラスのような結界にひびが入ったのである。
結界全体がひび割れ、砕け散る。
結界を形成していた魔力は、行き場を喪い飛散し、突風となって周囲を騒がせ、やがて消えた。
ミラルドは結界が割れる光景を上空から目にし、眉間にしわを寄せた。
しかし地上に目をやると、もっと悲惨な現状を知ることになる。
南の川は氾濫し、木々を薙ぎ倒し海へ濁流となって押し寄せている。
目的の西の杉林は……もはやない。
大地がひっくり返った様にうねりをあげ、木々は根こそぎ倒れている。
たった一本を除いて。
「ちょっと……。何がしたいのよ」
ミラルドは怒りを通り越して、笑みが口角に浮かぶ。
いや、笑っている場合ではないのだが、余りにも現実とは思えないこの状況に笑うことしか出来なかった。
しかし、たった一本だけ残された杉の木の上に、不自然に真っ直ぐと佇む少年の姿を捉えた。
ミラルドの顔から表情が消える。
「あいつか」
疾風と共に迫り来るミラルドを見て、少年は不適に笑っていた。
そして右手を振り上げ親しげにミラルドに挨拶をする。
「よっ。姉ちゃん。待っていたよ」
ミラルドの顔に青筋が立つ。
少年から少し距離をとって、上空で箒を止めた。
ミラルドは内から込み上げる憤りを抑え、何とか冷静に言葉を返す。
「あなたに、姉と呼ばれる筋合いは無いわ。それに、その格好、止めてくれない? 死にたいのかな?」
カシミルドそっくりの少年に、ミラルドは苛立ち、徐々に言葉に怒気がこもる。
少年はそれを悦んでいた。
「はははっ。怖いよ。姉ちゃん。いつもは優しいじゃん。俺にはさっ」
少年はあどけなく笑い、ミラルドをニコニコと見つめる。
ミラルドは少年の言葉に疑念を抱く。
――いつも? カシミルドの振りをしているだけかもしれないけど……何か引っかかる。
いつも私と……。
「もしかして。クロゥ?」
少年は瞳を丸くさせ、悪戯に微笑んだ。
こんなに直ぐに言い当てられるとは思っていなかったようだ。
「やっぱり。クロゥなのね。初めて私と話すじゃない。――ねえ。目的は何? あなたは何者? 返答次第では、容赦しないから」
ミラルドの声に迷いはない。
本気で殺る気だ。
しかし、クロゥは冷静だ。
むしろこの状況を楽しんでいるかのようだ。
「おーい。仮にも可愛い弟と同じ顔の俺を殺すかね? おー怖。やっぱ、黒の一族の女は嫌いだわ。ケケケッ」
おどけるクロゥを見て、ミラルドは微笑し、クロゥを睨み付ける。
ミラルドを取り巻く空気に殺気が入り交じる。
「とりあえず。その顔で喋らないでくれる。――地の精霊よ。我が声に従え。木々を薙ぎ払い……」
ミラルドが詠唱を始める。
クロゥが立つ木の根本の大地が揺れ始めた。
クロゥはその様子を平然と見守り、ゆっくりと口を開く。
「――地の精霊よ。本来の主が誰か、その身に聞け……」
クロゥの詠唱が始まると、ミラルドの言葉は力無く、空中でさ迷う。
先程まで感じていた精霊は……。
「地の精霊は従わない」
クロゥが愉しそうにミラルドを見て断言する。
大地が静まり、ミラルドの魔法は無力化される。
「なっ」
こんな屈辱は初めてだ。
地の精霊が駄目なら……。ミラルドはまた詠唱を始める。
「風の精霊よ。我――」
「風の精霊よ」
今度はすぐにクロゥも詠唱を重ねてきた。
どちらが上か、思い知らせるように。
「お前らの主は誰だ? 我に、本能のまま素直に従え」
ミラルドの箒から風の精霊が去っていく。
「しまっ……」
ミラルドはバランスを崩し大地のうねりの中へまっ逆さまに落ちていく。
地面は直ぐそばだ。
ぶつかる、そう思い、瞳をギュッと瞑る。
――しかし、衝撃は一向にやってこなかった。
フワリと地面に身体が降ろされるのを感じた。
地面にへたり込むミラルドの前にクロゥが降り立つ。
「怪我は無い? 姉ちゃんに怪我されたら、カシミルドに何て言われるか。――そう怖い顔すんなよ。ケケケッ。姉ちゃんにはさ、地の精霊も風の精霊も、従わないよ」
ミラルドはクロゥを睨み付ける。
こいつに助けて貰ったことが何より腹立たしい。
「仕方ないことなんだよ。姉ちゃんより、俺の方が、精霊に愛されているんだから」
至極当たり前に、クロゥはそうミラルドに告げた。
「でさ。本題。そろそろカシミルドを解放してやってくんないかな? こんな世界と切り離された所にいてもさ、何も始まらないんだよ。あいつ自身の目で、世界に触れて。今何が起きているのか知らなくちゃいけない。世界は限界だろ? お前も気づいているだろ?」
クロゥの言うとおり。
この世界は今、おかしい。
精霊は力を弱め、人口も少しずつ減り、死者の魂は何度祓っても穢れ、いつか全てが闇に飲み込まれてしまうのではとさえ、考えたこともあった。
黒の一族は世界の理を守るため、山を降り、各地へと調査に出ている。
けれど――。
「どうしてあの子じゃなきゃいけないの? 一族の族長は私よ。一族の役割も私が果たすから、カシミルドには、危険なことはさせたくないのよ。何も知らない、まだまだ子どもなんだから」
カシミルドを子どものままにしたのはミラルド自身だ。
母から貰った宝物をずっと傷つけずに大切にそばに置いておきたかった。
でもこのままじゃ、クロゥがカシミルドを何処か遠くへ連れていってしまう。
ミラルドは感情が込み上げ、目に涙を浮かべ、俯く。
そんな様子を、クロゥ全く気付かない振りをして話を進める。
「過保護もブラコンもそれぐらいにしねぇと。あいつは成長しねぇだろ? 可愛い子は旅をさせよって言うだろ。あいつ自身が、ここから出るって決めたんだ。尊重してやれ」
その言葉を聞いて、ミラルドはハッと顔をあげる。
「何それ? クロゥが唆したんじゃないの? カシミルドが言い出したって事?」
「まぁ。この華麗な作戦を考えたのは俺だぜ。黒の一族の守り神のこの俺様が!! でも言い出したのはあいつだ。あいつが行くっていうから、俺も行ってやる事にした」
言い出したのはあいつ――ミラルドは衝撃を受ける。
始めに結界が攻撃されていると知り、まずカシミルドの無事を心配した。
そして、カシミルド本人が攻撃に関わっているとわかると、裏で誰かが糸を引いている。
と、思った。
それ以外あり得ないと思っていた。
……でも、もしかしたらクロゥの嘘かもしれない。
クロゥはどこまで本当の事を言っているのだろう。
こいつは何者なのだろうか。
「ねえ。前から思っていたんだけど……あんた何者? もしかして……五代前の族長? 神隠しにあって消えたっていう……」
クロゥはミラルドの予想外の発言に目を見張る。
「へー。お前面白いな。色々考えているんだな。でも、神隠しとか言われているのは五代前の族長の姉だろ。俺様の何処が女なんだよ。ケケケッ。気持ちワリィ。――あっ。俺はそろそろ行くぜ。今頃カシミルドは海の上だろうし。ケケケッ」
「なっ。嘘っ」
ミラルドは東の海の方を振り返る。
「走っていってもなぁ。間に合わねぇと思うぞ。ケケケッ」
ミラルドはクロゥの言葉を無視して俯き、ボソボソと何か呟いている。
風の精霊がミラルドの周りに集まる。
クロゥはニヤリと笑い、
「風の精霊は従わない――」
クロゥが冷たく言い放つ。
しかしその時、ミラルドの右手に、風の精霊の力を受け翆色に輝く羽が目に入った。
――クロゥの詠唱が止まる。
「それ……は、何でここに……」
クロゥは驚愕の表情のまま固まる。
ミラルドはその隙を見逃さない。
――今だ。
「我が峰に属する精霊よ。我に従え」
箒がまた輝きを取り戻す。
大気が揺れ、旋風がミラルドを箒ごと空高くへ押し上げた。
ミラルドは箒を握りしめ、切望する。
「カシミルドの所まで。――行け」
勢いよく、東へ向かって飛び出した。
クロゥは呆然と立ち尽くしていた。
クロゥは空を見上げる。
どこまでも青い、遠い空のその先を見上げる。
「何で……。あいつの羽がここにあるんだよ。――くそっ」
クロゥは頭をかきむしり、顔をしかめる。
「今は――俺も行かなきゃな」
目を瞑り集中する。
クロゥの背中から魔力が溢れ出す。
その魔力は一対の大きな黒い翼となって形を成す。
短い黒髪、金色の丸い猫のような瞳は悪戯に光を放つ。
カシミルドと似ているが少し違う容貌だ。
クロゥは翼をバサリと広げ宙を舞うと、ミラルドの後を無言で追った。