第三十一話 あの声に導かれて
リリィによって湖に蹴落とされたカシミルドは、水中でもがき苦しんでいた。
服の重みもあってか、体は湖の底へと向かって落ちていく。
急に落とされ、鼻に水が入って痛い。そして息が吸えない。
まさか湖の中へ行く必要があるとは思っていなかった。
自分って泳げたっけ?
でも、泳げたとしてもこのままじゃ、死ぬ。
一度空気を吸いに行かなくては……。
カシミルドは、湖の水面を見上げた。
するともう一人、湖の中に飛び込んできた。
クロゥだ。クロゥは器用にもカシミルドの所まで泳ぎ、指で何かジェスチャーをしている。
カシミルドには何を表しているか全く分からなかった。
見かねてクロゥが口を開く。
『みぶっ! べべーぬばん……』
『?』
みぶ? 水? べべーぬばん?
カシミルドは漸くクロゥの意図に気付き、瞳に光を呼び込んだ。
すると、カシミルドの足元から大量の泡が吹き出し、その間からシレーヌが現れた。
「御主人様。気付くのが遅すぎますわ」
『シレーヌ! ってあれ? 話せる……』
「御主人様の周りに薄い泡の膜を張りましたわ。ついでにクロゥ様にも」
『ありがとうシレーヌ』
シレーヌはカシミルドにニッコリと微笑み、そして湖の底に目をやった。
『シレーヌも分かる? そういえば、前に海でも言っていたよね。気枯れって。……クロゥ。底の方、見て。あそこ、一番濃いよね』
カシミルドは湖の中央の辺り、湖の底の泥を巻き上げたかのように淀んでいる箇所を指差して言った。
『あそこだな……行くか』
クロゥは一直線に底へと泳いでいく。
カシミルドもそれに続こうとした。
しかし何故か進まない。
その様子を不思議そうにシレーヌは見ていた。
「御主人様。泳ぐの苦手ですか?」
『へっ!? そうなのかな……。浅い川で、底に手を付いてしか、泳いだことなかったかも』
「それは、泳いだのではなく、這って進んだだけですわ。私が水流を作って差し上げます。クロゥ様が待っていますわ」
『よろしく頼むよ。シレーヌ』
「はい。お任せあれ」
泳げないことが判明したカシミルドは、シレーヌの水流によって湖の底を目指した。
◇◇
湖の底に近づけば近づくほど、周りの水が重く感じた。
黒く靄がかった水中を進み、一番濃い靄の近くの底に足をついた。
湖の底は柔らかく、足を上げようとすると水草が絡まって身動きが取れなくなってしまった。
『クロゥ! 水草が凄くて動けなくなっちゃったよ!』
『何してんだよ……ってかそれ、水草じゃなくね?』
『えっ?……それじゃあ……』
足元をよくみると、黒い泥のようなネバネバしたものがカシミルドの足に絡まっていた。
『うわっ何だこれ!?』
カシミルドぎその存在に気付くと、急に幾千の声が聞こえてきた。
海で聞いた声に似ている。
悲しみと憎しみが込められた声だ。
前よりはっきり聞こえる。
それは、カシミルドが魂たちの声に耳を傾けているからかもしれない。
「消えたくない」「止めて」「憎い」
「痛いよ」「フォンテーヌめ」
これが、穢れた精霊の魂の声?
懇願するように、悲観するように、または憎悪を込めて声を張り上げている。頭にズキズキと響いてきた。
カシミルドの足に絡んでいた黒い泥は、人の腕の様な形を成し、身体中にまとわりついた。
カシミルドは立っているのがやっとだった。
いや、全身を黒い泥に包まれ、立っているのがも良くわからなくなっていた。
シレーヌの泡が守ってくれているのか、体への圧迫感は少なく、息も吸えた。
ただ、体が重く、悲痛な声を耳にし、頭も酷く痛む。
足元から這いあがる、うねうねと蠢く何十もの黒い腕がカシミルドの体を徐々に覆い尽くしていった。
『カシミルド!?』
クロゥはその泥を取り除こうとカシミルドに触れようとするが、シレーヌがそれを止めた。
「クロゥ様。大丈夫ですわ。私の膜がありますから」
『でも、このままでいいのか?』
「御主人様の体に変調がありましたら、私がすぐ気づきますわ。もう少し、見守りましょう」
『ああ……』
◇◇◇◇
カシミルドは瞳を閉じ、その身を穢れた魂の淀みに委ねていた。まるで真っ暗な水中を、魂だけで漂っているかのような感覚だ。
この穢れを祓い魂を浄化させるのが僕の役目。
これは命の精霊の力を借りるんだよね……。
落ち着いて、精霊と対話するんだ。
ラルムさんの時の様に、また、あの声が教えてくれるかもしれない。
『命の精霊よ。我が呼び声に応えよ。我が名はカシミルド=ファタリテ……』
何故だろう。
あの女性の声は聞こえないけれど、呪文は自然と浮かんでくる。
『命の天使の祝福を受け、この地の魂を浄める者なり。我が魔力を持って、我が魂が……ん?』
カシミルドは詠唱を中断した。
誰かがカシミルドの唇を塞いだからだ。
瞳をそっと開けると視界は黒く靄ががり良く見えないが、誰かの人差し指で唇を塞がれている。
目の前にシレーヌの様な影が見えた。
しかし、シレーヌにしては大きすぎる。
それに気配が違う。この人は……誰?
『精霊の声は聞こえた?』
『えっ? その声……さっきの……』
目の前の女性……姿は見えないけれど、その声は知っている。
優しくて懐かしい、心にスッと溶け込むような声だ。
『言葉に縛られては駄目……覚えていてくれた? 私の声、覚えていてくれたのね……』
声の主は、カシミルドの頬をそっと撫でた。
『あなたは誰?』
『私は……ごめんね。名乗る資格も時間も無いの……これを使って……』
女性は水晶をカシミルドに差し出した。
下から半分程黒ずんだ両手にすっぽり収まる大きさの水晶だ。
『これは……?』
『これは、私が使っている水晶。……生きた人から穢れを祓う事とは違って、穢れた魂を浄化するには代償が必要なの。……自分自身に穢れを取り入れて自分の魂と混ぜて浄化するの……それは、自身の命を縮めることになるわ……』
『命を縮める?』
『だからこの水晶を使って……これを使えばあなたの命を縮めずに済むわ。呪文は分かるでしょう?』
『はい……あの、海で会ったのも、ラルムさんの時も……助けてくれたのはあなたですか?』
その問いに女性は答えなかったが、影のようにしか見えない女性の顔が、にっこりと微笑んだように感じた。
『ほら、呪文の続きを……』
女性はカシミルドを包み込むように、後ろから肩に手を置いた。その声に、その温もりに導かれ、カシミルドは魔力を委ねた。
『我が魔力を持って、我が魂が穢れを受け入れよう。そして安らかに転生の時を待ちわびよ……』
カシミルドの体が金色に輝きを放ち、湖の底には、巨大な魔方陣が浮かび上がる。
それと同時に女性の影と水晶も金色の光に包まれ、カシミルドの全身にへばりついていた泥の塊も幻だったかのように光に溶け消えていった。
そして黒く淀んだ靄はカシミルドの持つ水晶へと吸い込まれていく。
『良く出来ました。カシミルド……』
『えっ?……』
女性に頭を撫でられたかと思うと、手に持っていた水晶がいつの間にか消えていた。もう少し、話したかったのに。
回りを見回しても、澄みきった水中に、緑色の綺麗な水草がゆらゆらと揺れているだけである。
『あれ? いない……あ。黒い靄が消えた? うわぁっ』
『カシミルド!? 大丈夫か?』
急にクロゥがカシミルドに飛び付いてきた。
そしてカシミルドの体に異常が無いか確認し、また抱きつく。
『どうしたの? クロゥ?』
『何か独り言ばっかり言ってなかったか? また、お前じゃなくなっちまう気がして……』
隣でシレーヌが呆れ顔だ。
「クロゥ様? いつからそんなに過保護になったんですの? でも、水が美しくなりましたね。御主人様、お疲れ様です」
『シレーヌ。手伝ってくれてありがとう。これで一族の役目は果たせたかな? クロゥ……そう言えばさ、転生の扉は見つかったの?』
『さあ? 普通にその辺にあるモノなのかもよく知らねーな』
『えー。そうだ!』
カシミルドは心の中で命の精霊に呼び掛けた。先程命の精霊に力を借りたからか、まだ周りに沢山の精霊の気配がする。
『クロゥ! 扉はクロゥが知っているって! 素直に求めろって言ってるよ』
『何だよソレ。命の精霊がそう言ったのか? 精霊も生意気だな』
クロゥはそう不満を漏らしたが、掌を見つめ、金色の瞳に光を宿した。
『俺は……いや。俺が素直に? 素直に従うのはお前らの方だろ……命の精霊よ。我が名はクロゥ。転生の樹より創造せし扉を、我が前に顕現せよ……』
クロゥの詠唱と共に、水中に渦が巻き起こる。
そしてそれは湖の底の砂を巻き込み、カシミルド達の視界を奪った。
暫くして砂が落ち着くと、湖の底に張り付くようにして存在する大きな扉が現れた。
黒く固い滑らかな石のような物で作られた、光沢のある重そうな二枚扉。
それはまさしく、転生の扉だった。




