第三十話 穢れた湖を前に
静まり返る精霊の森に、一石を投じたのはリリィだった。
「はははっ。カシミルド、お前はオンディーヌに似てお子様だなっ」
リリィは、不穏な空気を打ち消すように大声で笑った。
カシミルドもカンナもリリィの輝かしい笑顔に、先程までの会話の内容が吹っ飛んでしまった。
カシミルドは恥ずかしそうに顔を赤くさせる。
「リリィさんっ。お子様って……そんなに笑わないでください!」
「仕方なかろう。オンディーヌと同じく、カシミルド……お前も穢れに負けておるぞ? 自分でも分かっているだろう?」
カシミルドは湖に視線を向ける。
やはり、底の方に何かいる。
「言葉とは厄介な物だ。たとえその言葉が本心であっても、そうでなくても、それを耳にした者の心にはその言葉が、そのままその意味で刻み込まれる。だから、カシミルドも、無闇な言葉は口にしてはならん」
「そうだよ。カシィ君……」
カンナが潤んだ瞳でカシミルドを見つめた。
カンナは僕を必要としてくれている。
この気持ちに答えたい。カシミルドはそう思った。
「私には子供はおらぬが、人殺し等と、お前の母が聞いたら……さぞ悲しむであろうな。自分のせいで子に罪を背負わせるなど……命を賭して、お前をこの世に送り出した母が、そんな事をしたかった筈がないであろう?」
リリィがそう言うと、後ろでずっと黙っていたルミエルが恥ずかしそうに、でもカシミルドを励ますように話し始めた。
「私……も、子供はいないけど、赤ちゃんの頃から育てた子がいるんですの」
そういえば、リュミエは孤児院を開いていたそうだ。
ルミエルもそこで育ったのかもしれない。
「ある日その子が、私の不注意で怪我をしてしまいましたの……幼かったから命に関わるものでした……私は本当の母ではないのですけど……あの時は本当に生きた心地がしませんでしたわ。私の命を与えても構わないとまで思いましたもの。ですから……カシミルドのお母様は……きっと、貴方にそんな風に思って欲しくないと思いますわ」
ルミエルはリリィと目が合うと、クルリと後ろを向いて顔をそらした。
「まさかルミエルがそんな経験をしていたとは……。良いことを聞かせてもらった。ーーカシミルド。穢れた魂も、生前は憎しみだけで生きていた事などない筈だ。彼らの声に耳を傾け、浄化して欲しいが……言葉に縛られては駄目だぞ?」
カシミルドはハッと目を見開いた。
ーー声に縛られては駄目よーー
海の上でも誰かに言われた。
あれは……リリィさん? それとも……。
「では。お喋りはここまでだ。カシミルド! 気は落ち着いたな? 早速であるが、行ってみよう!」
リリィはオンディーヌを体から引き剥がし、湖の縁にカシミルドを案内した。
カシミルドはそっと湖を覗き込む。
近くで見ると、水面の輝きと対照的に、底の見えない程に淀んだ湖に息を飲んだ。
「あの……。これから僕は……?」
「ふふふ。この湖の穢れを祓って参れ。ーールミエルは光。闇を追い払うことは出来ても、消すことは出来ない。闇と己を混ぜ、浄化出来るのは黒の一族のみだ。我が家に泊まった宿代だぞ」
クロゥはカシミルドのフードから飛び出し、人型に変化し湖の縁に降り立った。
そしてカシミルドを横目でチラリと見て、湖に視線を反らした。
「俺も行くぜ。俺に穢れは祓えねぇけど……転生の扉、ついでに拝みに行ってやる」
クロゥは自分と向き合う覚悟を決めたようだ。
その後ろで、カンナは拳を握りしめ、カシミルドにエールを送る。
「カシィ君! 頑張って!」
「うん!」
最近カシミルドは、ベッドで寝込んでばかりだった。
それに、穢れを前に簡単に感化されて弱音ばっかり吐いてしまった。
カシミルドは心に誓った。
自分を東へ導いてくれたテツの為にも、少しぐらい役に立つことを証明したい。
リリィさんの期待にも答えたい。
クロゥの不安も打ち消してやりたい。
それに、カンナにも良いところを見せたい。
ーーあれ? 僕ってこんなに欲張りだったんだ。
「よし! 湖の穢れを……穢れを? カンナ!? 叔父さんがやってたの見たって言ったよね! 穢れた魂を浄化するのってどうやるのかな?」
「え? カシィ君、さっきラルムさんにやってたよね?」
「あー。あれは、穢れた気に当てられていただけだから……穢れの元を浄化するのとは違うと思って……」
カンナは叔父さんがしていたことを思い出す。
しかし、先程の魔法と何が違うのか何も思い当たらなかった。
「う~ん。ごめん。わかんないや……」
「そっか……」
カシミルドはクロゥに目をやるが、反らされた。
どうしたものか。またあの声は聞こえるだろうか。
湖の縁でカシミルドが考え込むと、リリィは後ろでため息をついた。
「づべこべ言わずに、さっさと行け!」
リリィはカシミルドの背中を思いっきり足で蹴り、湖へとふっ飛ばした。
「えっ!?」
カンナとルミエル、そしてクロゥも驚き、湖に沈んでいくカシミルドを呆然と目で追った。
「リリィさん!?」
「リリィさん!? ではない! お前も行け! クロゥ!」
「ゲッ!」
リリィはクロゥもカシミルド同様、湖に蹴りおとした。
カンナは心配そうに湖を見つめる。
「うわ~。大丈夫かな……」
「リリエル……私のカシミルドに何て事してますの?」
ルミエルはリリィを睨み、そして隣のカンナを見た。
この女はいつもフェルコルヌ臭い。
ルミエルはこの匂いが嫌いだった。
「あなた。またフェルコルヌと一緒ですの? まあ、いい心がけね。カシミルドが怪我した時はよろしくね」
「え?……あ、はい……」
カンナはペシャンコのポシェットに手を当てた。
そうだ。メイ子を置いてきてしまった。
もしカシミルドが怪我でもしたらどうしよう。
しかしふと、脳裏にユメアの顔が浮かんだ。
カシミルドは、ユメアの加護石を持っている。
それに、メイ子なら一瞬でここまで来れるのかも知れない。
カンナは両手を握りしめて、湖を見守った。
そんなカンナの隣に、オンディーヌがフワリと近づいてきた。
そしてカンナの瞳をじーっと見つめる。
人間嫌いかと思ったが、そんな事もない様子だ。
オンディーヌのとても澄んだ瞳で見つめられた。
「お前。綺麗な瞳をしているな。さっきの男と兄妹か?」
「兄妹!? 違います。ただの幼馴染です!」
「そうなのか? 同じ匂いがするのだが……その腰の短刀は……」
「カンナ!? あなた、カシミルドと幼馴染ですの?」
オンディーヌの言葉を遮り、ルミエルが興奮気味で割り込んだ。
カンナを睨み付け威嚇してくる。
何か不味いことを言ってしまったようだ。
「え……一応そうですけど。小さい頃だから……ずっと会えなかったし。カシィ君の事は知らないことばかりで……」
「……ならいいんですの……」
ルミエルはまじまじとカンナを見た。
「可愛げのない焦げ茶色の髪と瞳。そしてフェルコルヌの匂い……獣臭いわね。……で? カシミルドと幼馴染? 目障りなポジションね。……ユメアはカシミルドに色目ばかり使うけど……この女は何かしら。こいつも邪魔者?」
カンナの背後でルミエルが呟いている。
気不味い雰囲気が四人を取り囲む。
「ルミエル。心の声が駄々漏れだぞ? はしたない」
リリィの助言にルミエルは顔を真っ赤にして反論した。
「な、ななな何ですって? い、良いじゃない! 私が何を考えていようと! リリエルは誰かを好きになった事が無いから、そんな事を言えるんですわ」
カンナはルミエルの言葉に顔を俯かせた。
ルミエルがカシミルドに固執していることは分かっていたが、本当に好意があったのだと、思い知った。
ユメアと違って、カシミルドは何故かルミエルに冷たい。
だから、何となく余裕があった。
自分の方がカシミルドを……。
カンナは首を横に振る。また自分は何を考えているのだ。
カシミルドは湖の底で頑張っているというのに。
しかし、後ろの二人は色恋沙汰の話で言い合いをしていた。
「私も愛は知っているぞ? 私は精霊を愛している」
「それ。私が紅茶を愛していると言うのと一緒ですわ」
「違うぞ!? 精霊を紅茶と同等に扱うでない!」
「そうよ。そうよ~」
オンディーヌもリリィに加勢するが、ルミエルに睨まると、肩を竦めてカンナに身を寄せた。
「オンディーヌを睨むでない。私はオンディーヌの様に、無垢で純真で、そして世界を美しく彩る精霊達を愛しているのだ。私は精霊を見守るためにこの生を捧げると誓った。ーールミエルはどうなのだ? もしアレが他の女を選んだらどうする? 真にアレを愛しているのなら、喜んでアレの幸せを祝福できるだろうなぁ?」
「やっぱり、リリエルと話しても平行線ね。綺麗事ばかりで大嫌い。いつも自分の意見が正しいって顔して、押し付けて。私だって一度は……でも、二度目はごめんですの」
ルミエルはそう言い捨てると、皆から少し離れた湖の縁に腰かけた。
もう話しかけるな、というオーラが出ている。
その時、静かだった湖の中心から波紋が広がった。
「始まったな……」
リリィが湖に向かって呟いた。
湖の対岸に、一人の男性が立っていた。
深くフードを被り、顔は見えないが、フードの端から黒髪が垂れている。
湖の波紋を見て、男性は慌ててフードを取り、目を凝らした。
黒い瞳と黒髪が露になる。年は三十オーバー。
顎には無精髭が生えている。
「あれは……」
男性は不安げに空を見上げた。
そして、空中の一点を見つめて頷いた。
「そうか……カシミルドか……」
そう呟くと、彼は手に持っていた水晶を湖に投げ入れ、その場に腰を下ろした。




