第九話 ボタンの掛け違い
カンナはカシミルドを背負って部屋に戻った。
ベッドで寛いでいたクロゥは、カンナの背中で眠るカシミルドを見て驚いて飛び起きる。
「かっカンナちゃん? それどーした!?」
「えっと、話の途中でカシィ君、気絶しちゃったんだ。ーー天使の魂は呪いの種子にどうのって、それで人々を世界から滅ぼす……とか言った後に」
「は? んなこと誰が言ったんだよ……」
クロゥの顔色が一気に悪くなり、ベッドに腰を下ろした。
「ーーその顔だと、クロゥは知ってることなんだね。このことを言ったのはカシィ君だよ。シレーヌさんの言葉みたいなことも言ってたけど……」
カンナはカシミルドをベッドに寝かせた。今はさっきの事など無かった事のように、気持ち良さそうに眠っている。
クロゥは部屋の一点を見つめ、口を開いた。
「シレーヌちゃん。いるんだろ? どういうことだ。説明しろよ」
いつものクロゥとは違う、空気を裂くように怒気のこもった声で言い放った。するとクロゥの目の前にシレーヌが現れた。
「クロゥ様。申し訳ありません。まさか、御主人様が倒れてしまうとは……そんなに睨まないで下さる? 人間が魔獣を討伐するなんて口にするからいけないのですわ」
シレーヌはふてくされた様にそう言うと、クロゥと睨み合った。
「シレーヌちゃんは知ってるんだな? 呪いの種子の事を」
「はい。私は天使様が人々を滅ぼそうとするお姿をこの目で見ましたから。あの時、執行されていれば良かったのに……」
シレーヌの瞳が曇る。ついでにクロゥも暗い表情……かと思ったら、急に顔を上げて悪戯な笑みを浮かべる。
「ん? ってことは、シレーヌちゃんって結構歳いってるんだな。小さいから若い魔獣かと思ってたわ」
「……クロゥ様。女性の年齢で笑うなんて、本当に失礼ですわよ。それに、そんな風に笑ってられるのも今のうちですわよ」
「何だよ。俺にまで喧嘩腰かよ? シレーヌちゃん」
二人の間に険悪な空気が流れる。カンナは二人の顔色を交互に窺いながら、会話に入れず戸惑っていた。
「はい。喧嘩腰ですわよ? 私は御主人様と心が繋がっております。だから、御主人様の心の痛みが伝わってくるんですの。御主人様の中にある憎悪も」
「憎悪? カシミルドに? まさか……シレーヌちゃん。魔獣討伐とか言ってたけど、もしもそんなことが起きたら……」
「どうなりますかね? ちなみに、クロゥ様はどちらに付きますか? 人か、魔獣か?」
睨み合う二人にカンナは漸く割って入った。
「あっあのさ。さっきから何の話をしてるの? 全然ついていけないんだけど!? それに……天使様って本当にいるの?」
シレーヌはクロゥをじーっと見つめている。
クロゥは気まずそうに頭を掻いた。
「カンナちゃん。カシミルドにとっての天使はカンナちゃんだと思うぜ!」
シレーヌは腕を組み呆れて首を振った。
カンナは顔を真っ赤にして恥ずかしさを隠すように怒って言う。
「なっ何言ってるのよ! そういうふざけていい話じゃないでしょ! もう。クロゥには聞かないから。……でも、シレーヌさん。人と魔獣はそんなに仲が悪いの? 共存できる道は無いのかな……」
「カンナ様みたいにお優しい方ばかりだと良いのですけどね。でも、共存出来ないと思ったから、天使様も滅ぼそうとしたのですし、その後、魔獣界が造られたのですわ」
天使が人を滅ぼそうとした……カンナにはどうしても想像がつかなかった。
それに、そんな事が起きたのに、どうして人々の間には何も語り継がれていないんだろう。
「どうしてその時、天使は人を滅ぼすのを止めたの?」
「他の天使様が止めたのですわ。他の天使様は、人間側についたと解釈するか、身を滅ぼさんとする天使様を守るためか……どちらかは分かりませんけどね」
「そうなんだ……人間側か……そうだ。テツさんが、シレーヌさんと話してみたいって言ってたよ。この国の王子様」
シレーヌは首を傾げ、訝しげにカンナを見た。
「この国の王子様……? どんな方ですか?」
「一度地下で会ってただろ?」
クロゥが助言するも、シレーヌは思い出す素振りもなく、首を横に振った。
「覚えておりませんわ。人間なんて視界に入れませんから」
「そっか。私も詳しく知らないんだけど、とても頼りになる人だよ。教団からカシィ君を助けてくれたのもテツさんだし、魔法は使えないらしいんだけど……そうだ。皆が時間が止まったみたいに動かなかった時もね、テツさんは動いてたの」
「……それは不思議ですわね。魔法が使えなくて、魔法に囚われない……まるで……」
シレーヌは一点を見つめてボーッと思考の中に落ちていく。
「シレーヌさん?」
「あっ。私、そろそろ魔獣界に戻りますわ。御主人様のこと、宜しくお願いしますね。少し頭を冷やして参ります。クロゥ様、失礼しますわ」
シレーヌは心を何処かに置き忘れたかのように遠い目をして口元に笑みを浮かべ、泡となって消えていった。
「シレーヌさん。何か様子が変だったね」
「人と魔獣は、色々あんだよ」
「クロゥはいつも適当だね。ーーはぁ。明日出発だけど……カシィ君大丈夫かな?」
カンナは心配そうにカシミルドの額に手を当てた。
◇◇◇◇
カシミルドは夕方頃に目を覚ました。
部屋には誰も居らず、窓からは夕陽が差し込み、テーブルの上にはティーセットが置かれていた。
ユメアが来たのだろうか。
よく見るとクロゥがソファーで寝ていた。
小さな黒鳥の姿で。まだ具合が悪いのかもしれない。
カシミルドはソファーに腰掛け、寝ているクロゥをそっと撫でた。
「クロゥ~。大丈夫? タルト、一緒に食べよう?」
「んー? おっ? カシミルド、大丈夫か?」
クロゥが心配そうにカシミルドの掌に飛び乗った。
首を傾げて目をパチパチさせている。
「大丈夫って……あー。そっか、僕あのまま倒れたのか……。迷惑かけちゃったな……カンナは?」
先程の事を思い出し、カシミルドは胸の辺りをぐっと押さえた。胸が苦しい。
シレーヌが何か言ってたけことは覚えているのだが、内容は思い出せなかった。
「カンナちゃんは遠征用の制服をもらいに行ったぜ。カシミルド、もしかして……覚えてない?」
「ははは。多分……シレーヌの声がしたのは覚えているんだけどね」
クロゥはシレーヌの言葉と呪いの種子について適当に説明した。カシミルドは真剣に聞き入るが、如何せんクロゥの説明は雑だった。
「要するに、人々を滅ぼそうとした天使がいたってこと? 天使はもっと……優しくて、人間を慈しむ心を持った存在だと思っていたよ」
カシミルドは絵本を思い出し、残念そうに瞳を閉じてソファーにもたれかかった。
「まあ。カシミルドだって、あの状況下だったらそうしたと思うぜ?」
クロゥはテーブルのパイを嘴でつつきながら冷然と言った。まるで自分もその状況を見ていたかのように。
「それはどんな状況なんだよ……」
カシミルドが溜め息混じりに疑問を呟いた時、扉がノックされユメアの声がした。
「カシミルド君! 失礼しますね~」
「はい」
ユメアは教団の黒い制服を抱え、満面の笑みで部屋に入ってきた。クロゥは気にせずパイをつついて食べ続けた。
「あら? カシミルド君。鳥を飼っているんですか?」
「ああ。これはクロゥ。僕と同じ甘党なんだ。……ユメア。それ制服? もしかしてユメアも……」
「あっ。私はお留守番です。残念ですが今回は諦めます。……これはカシミルド君の制服ですよ! 遠征用の黒い制服です。サイズが合うか着てみてください」
ユメアはカシミルドに制服を渡すと、着替えを促した。
カシミルドは以前、宿屋ビスキュイのカンナの部屋で学んだことがある。
女の子の前で勝手に着替え始めてはいけないのだということを。しかし、洗面所が見当たらない。
カシミルドが制服を抱えたまま辺りを見回していると、ユメアはすぐに察した。
「あ! 私、後ろ向いていますから着替えて下さい。サイズが合わなければ新しい制服を持ってきますので」
ユメアは顔を紅くして、くるりとカシミルドに背を向けた。
パイをつつくクロゥと目が合う。
鳥と目が合うとは不思議な気持ちだ。
ユメアはクロゥの存在がとても気になった。
カシミルドは制服を広げ、装飾の多さに浮かない顔をする。
「ありがとうユメア。何かこの服、ボタンが多いね……」
「大丈夫ですか? ボタン外しましょうか?」
「大丈夫! 慣れてないけど頑張ってみるよ」
カシミルドはユメアがクロゥに夢中な様子を確認すると、服を急いで脱ぎ、ぎこちなくシャツのボタンを外して制服のシャツを羽織る。
こんなに滑らかな生地の服など着たことがない。
そして、上着もズボンもサイズはピッタリだったブーツもジャストサイズだ。
「すごい……ピッタリだよ。ユメア」
「本当ですか!? 振り向いてもいいですか?」
「うん!」
「わぁ。スゴく似合ってます! これでカシミルド君も教団の新人ですね!……でも、ボタンを掛け違えてますよ。フフフっ」
カシミルドはボタンを一つ掛け違えていた。
その様子にクロゥは俯いて肩を震わせて笑っている。
ユメアも笑いながらカシミルドのシャツのボタンに手を掛けると、器用にボタンを外していった。
「ユメアっじっ自分でやるよっ」
「私がボタン掛けの見本を見せてあげますよ。大人しくしていてくださいね」
「はい……」
ユメアはカシミルドのシャツのボタンを全て外すと、カシミルドの胸に黒い小さなアザを見つけた。
ユメアが人差し指でチョンッとアザに触れると、カシミルドは驚いて体をビクつかせた。
「なっ何? くすぐったいよ!?」
「あっ驚かせてごめんなさい。小さなアザ? があって気になってしまって……」
「アザ?」
カシミルドはユメアが触れた所に目をやると、小さなアザがあった。
青アザというより、黒っぽい焦げ跡みたいなアザだ。
リュミエの部屋で何かされてたのだろうか。
「痛くないですか?」
そう言ってユメアはアザを指でなぞる。
カシミルドは急に恥ずかしくなり、はだけたシャツで体を隠した。クロゥの視線が痛い。
「大丈夫! 痛くないよ。後は自分でやるから……」
「わっ私ったら、失礼しました。ボタンは私がっ……」
ユメアはカシミルドの手を両手で包みボタンを留める手を制止させた。
ユメアは何か訴え掛ける瞳でカシミルドを見つめる。
いつもユメアはどうしてこんな瞳で僕を見るのだろう。
カシミルドは恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じた。
「私。またカシミルド君に会えて嬉しいです。少しでも何かしてあげたくて。一緒に居たくて……」
ユメアは寂しそうにカシミルドの手を握りしめた。
その青紫色の潤んだ瞳が、カシミルドを真っ直ぐに見つめる。
きっと、兄もいなくなるから寂しいんだ。
一人ぼっちは辛い。
誰かを待ってる時間は、永遠に終わらないように感じることがある。カシミルドにもそんな経験があった。
「ユメア。僕もテツさんも、すぐに帰ってくるから、心配しないで……待っててね」
「あっ兄は関係ないです! 私、ブラコンじゃないですからね! ボタン掛け、ちゃんと見ててくださいね。カシミルド君のやり方だと、ボタンかシャツ、どちらかが壊れてしまいます」
ユメアは兄の名を聞くと、頬を膨らませて怒った様子を見せたが、ボタンを一つ一つ丁寧に掛け直してくれた。
「ちゃんと自分で出来ますか?」
「うん」
「誰かにやって貰ったらダメですからね?」
ユメアがカシミルドの顔色を探るようにジッと顔を近づけて釘を指した。
その時扉がノックされた。
「おい。起きてるか? 入るぞー」
ぶっきらぼうな挨拶と共にシエルが部屋に入ってきた。手には黒い制服を持っている。
カシミルドに制服を届けに着てくれた様子だ。
シエルは、至近距離で対峙する王女とカシミルドを目にして、眉間に皺を寄せたまま固まった。
遠征用の制服を着たカシミルドを見て、何となく状況を察するが、このまま扉を閉める訳にも行かず決まり悪げに用件を口にした。
「あ……制服……を……」
「せっ制服なら、私が用意しました! カシミルド君が寝ている間に採寸も済ませたので、サイズも大丈夫です! 着方も教えたので大丈夫ですよ。ボタンの掛け方も教えましたので!」
ユメアはカシミルドの一歩前へ出て、状況を必死に説明した。
シエルが聞いてもいないことも一生懸命話している。
ユメアの話だと……こいつは王女様に着替えを手伝ってもらったということか?
シエルは返答に困り、早々に部屋から退散する道を選んだ。
「……そう……ですか。では自分はこれで失礼します」
シエルはユメアに向かってお辞儀すると、静かに扉を閉めた。シエルは扉の向こうで見聞きした事を、頭の中で整理する。
「あいつ。何者なんだよ……王女様とも仲がいいのか? はぁ……本当に変な奴だな……」
シエルは扉の前で深々と溜め息をついた。




