第二話 渋い紅茶
薔薇の香りが鼻をかすめる。
唇に柔らかく温かい感触が広がり心地よい。
まだ夢なのかそれもと現実なのか、そのどちらか分からず境界をさ迷っているようだ。
この温もりは……カンナ?……ここはどこだ?
唇から温もりが離れ、顔に柔らかな髪が触れる。
少しくすぐったい。
カシミルドはそっと目を開けた。
天井は真っ白で光沢があり、ベッドもふかふかでメイ子みたいに柔らかい。
そしてベッドの隣には……カシミルドの顔を覗き込むようにして見つめる、銀色の髪の女性がいた。
カシミルドはこの女性を知っている……その女性が誰なのか理解した時、全身に緊張が走った。
そして全てを思い出す。
教団の青年に拘束されたことも、以前腕を捕まれたときの恐怖も。彼女から少しでも離れるように、慌ててベッドから身体を起こしてふかふかのベッドの上を後退した。
「うわぁぁっ!」
しかし、下がりすぎてベッドの反対側から床へ一回転しながら落ちてしまった。
「あら。そんなに警戒なさらなくても……。立てますか?」
ベッドの向こう側にいたはずの女性が、カシミルドの目の前に立っていた。
カシミルドに手を差し伸べて優しく微笑む。そして、硬直するカシミルドを見て、女性は困ったように首を傾げた。
「あ、自己紹介がまだでしたわね。私、王国直属聖魔術育成管理教団、教団長。リュミエ=ブランシュと申します。ご一緒にお茶でもいかがですか?」
うっとりと優しい笑顔を向けるリュミエとは反対に、カシミルドの顔はサーっと血の気が引いていく。
目の前にいるのは、あの蛇のような瞳の教団長である。
しかも、他に誰もいない。選定の儀のことを問い詰められるのだろうか。
「あの? ご気分が優れないのでしたら、お茶よりも……私と一緒にベッドでお休みしますか?」
リュミエが頬に手を当て恥ずかしそうに提案した。
その様子に背中がゾワッとする。
カシミルドはさらに顔を青くして首を大きく横に振り、その場に立ち上がった。
床は冷たく足の裏に纏わり着く。
カシミルドが足を床の感触に驚いていると、リュミエはテーブルの紅茶を用意しながらクスクスと微笑んだ。
「ここは魔法は使えませんよ。光の魔法以外は……ご自分の足で床に触れる感触はいかがですか? フフフッ」
「……」
リュミエには全て見透かされているかのようだ。
自分の心の声は全て顔に書いてあるのではないだろうか。よく見ると髪も黒髪に戻っている。
カシミルドは不安に思いつつも、リュミエに促されるままテーブルの席に着いた。
「顔色が悪いですわ。緊張なさらなくて結構ですのよ。私はただ、貴方とお話がしたかっただけですの」
「……」
リュミエに、小さな丸テーブル越しに見つめられる。
赤みを帯びた黄色い瞳。リュミエの瞳がこんな色をしていたことを今始めて知った。
宝石のようにキラキラと瞳を輝かせ、カシミルドに紅茶を勧めた。一口だけ紅茶を飲む。
ハチミツの入っていない紅茶は、カシミルドにはとても渋く感じた。
「寝顔も可愛らしかったのですが……その金色の瞳は吸い込まれてしまいそうな程、美しいですわね」
リュミエはそう甘く囁きながら、カシミルドの頬に手を添えた。
カシミルドは驚いて身じろいだ。咄嗟に話題を変える。
「あ……あの。スピラルは? 魔獣の子どもと一緒にいた……」
「……スピラル? ああ、一緒に来た子ね。あの子は、別室で眠っているわ。一度起きたみたいだけど……。魔法の才があるから、教団で預かり育てるわ」
カシミルドの顔に安堵が浮かぶ。無事なら良かった。
里に連れていくか、ここで育ててもらうか、スピラルにはどちらがいいんだろう。
……しかし、これから里へ戻るという選択肢は選べるのだろうか。
「貴方。お名前は? まだ聞いていないわ」
「えっ……名前……」
「名前よ? どうしてかしら、誰も教えてくれないのよ」
「誰も? スピラル以外にも、誰かいるんですか?」
リュミエは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔で話しかけてきた。
「そうね……どうかしら? 貴方は、誰がいたら困る?」
リュミエに見つめられカシミルドは目をそらした。
見つめられると、全て読まれてしまいそうだ。
いたら困る人……それは勿論カンナだが、カンナは無事な筈だ。シレーヌから何も報告もないし、スピラル以外に一緒に誰か連れてきた様子もないから。
他に?……そう言えば、クロゥはリュミエと顔見知りみたいだったよな。朝からクロゥの姿も見えないし、まさか……。
「クロゥ? クロゥとは、お知り合いですか?」
カシミルドの弱味でも引き出そうとしていたのだが、クロゥと当てられ、リュミエは素直に驚いた。
クロゥは思っていたより利用価値があるのかもしれない。リュミエは興味深そうにカシミルドを見る。
「ええ。でも、クロゥよりも、彼のお兄様と親しくしていたわ。聞いているかしら?」
「いえ……何も……」
カシミルドは、クロゥに兄がいることも初耳だった。
クロゥのことは何も知らないと、改めて感じた。
「貴方。教団に入りなさい。貴方にはその力がある。私の隣で、色々なことを教えてあげるわよ? 魔法のことも、それ以外も……」
それ以外ってクロゥのことかな……この人は何者で、何を知っているんだろう。本能的に苦手だけど、自分の知らないことを教えてはくれそうだ。
「どうして僕をここに?」
「フフフ……ずっと探していたのよ。貴方を……だから、クロゥは邪魔だったの」
クロゥが邪魔……何だか胸騒ぎがする。
「クロゥに何かしたんですか? クロゥは今何処に!?」
リュミエがカップを握るカシミルドの手を包み込むように手を当てた。
「……クロゥの事は良いじゃない。貴方が教団に入るなら、私の元に来るなら……返してあげる。ーーねぇ。貴方は、私みたいな女性は好み?」
「はい?」
真剣な眼差しで、思ってもいないことを聞かれ、カシミルドは目を丸くして驚いた。リュミエの手に力がこもる。
「私みたいなグラマラスな女性が好き? それともスレンダー? 年下? それとも同い年くらい? それか私みたいな年上? 髪は長い方が好き? 短い方? 素直な子? 甘えん坊? ツンツンしてる子?」
謎の質問攻めにカシミルドの瞳は右へ左へと泳ぎ回る。
リュミエはその瞳の動きと握った手の微かな動きに集中する。
「そう。スレンダーで同い年位の髪の長い素直な子がタイプなのね」
リュミエは自分の豊満な胸を見て溜め息を吐いた。
「へっ!? そんな事は……」
しかしそう言われて思い浮かべたのはカンナだった。
……割りと合っているのかもしれない。
カシミルドは恥ずかしくなって赤い顔で俯いた。
その様子を見て、リュミエは立ち上がり、カシミルドの手を引いた。
「一度試してみましょう。案外、年上でグラマラスな女性も相性はいいかもしれませんよ」
「? 試すって……何をですか?」
リュミエはカシミルドに向かって不敵な笑みを浮かべた。
「それはモチロン……」
リュミエはカシミルドの耳元で囁いた。
カシミルドは顔面蒼白で固まった。
まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。
トントントン。
その時、扉をノックする音が部屋に響いた。
リュミエか扉を睨み付ける。
「リュミエ様。お話中の所、失礼致します。どうしても御取り次ぎするようにとおっしゃられまして」
部屋の外から青年の声がした。
リュミエは苛立ちながら言葉を返した。
「どなたかしら。今忙しいの。後に……明日にしてくださる?」
カシミルドはリュミエの言葉にビクッと反応した。
明日までここに二人で過ごすことが確定なのか……。
頭の中が真っ白になる。
「かしこまりましって……困ります! ちょっ」
扉の向こうで何か揉めているようだ。
ドアノブがガチャガチャと音を立てて扉が開かれた。
「失礼するよ」
聞き覚えのある声と共に、颯爽と身なりの良い青年が部屋に入ってきた。
テツ=イリュジオンだ。
リュミエはカシミルドの前に立ち、急な訪問者からカシミルドを隠そうとしている。
「あら? 女性の部屋に断りもなく入るなんて……いくらテツ様でも、礼儀がなってませんわよ?」
「ははは。リュミエ殿は厳しいな。私が用があるのは、後ろにいる彼だ。彼に会いに来たのだよ。急ぎの用だ。無礼は許したまえ」
「誰から漏れたのかしら? これからって時に……」
テツの後ろにいるレーゼルをリュミエは睨み付けて言った。レーゼルは知らないとばかりに、首を横に振っている。
「彼には黒の一族の一人として、東方視察団に加わってもらおうと考えている。ーーリュミエ殿。彼をこちらで預からせてもらってもよいかね?」
リュミエはカシミルドの手を強く握り締め、そして離した。
「よろしいですわ。でも帰還後は返してくださる? 教団に入るそうですから」
カシミルドはテツを見て、小さく首を横に振る。
テツは余り気にしていないようだ。
「それは彼に任せるよ。では、失礼するよ。ーー何ボサッとしているんだ? 行くぞ」
「は、はい!」
カシミルドはテツの後ろに付いて部屋を出た。
しかし扉の前で立ち止まり、リュミエに向き直る。
「あの……僕の名前は、カシミルド=ファタリテです。もし僕に、何か協力出来ることがあるなら……力になりたいとは思います。だから、クロゥは返してください。お願いします」
リュミエは驚いた顔をして、次第に顔を綻ばせた。
「モチロンよ……」
その言葉を聞くと、カシミルドはホッと小さく溜め息を吐いて、前を歩くテツを追いかけるようにして部屋を出ていった。
◇◇◇◇
カシミルドが見えなくなると、リュミエは熱のこもった瞳でレーゼルに詰め寄った。
「レーゼラ。聞いた? カシミルドですって! ねぇ、レーゼラってば」
扉の前で佇むレーゼルは顔色ひとつ変えずに言った。
「リュミエ様。レーゼルです」
「ん? そう、レーゼル! カシミルド、私に協力してくれるんですって! ねぇ聞いてた?」
「はい。この耳でしかと」
「そうよね。レーゼラ! レーゼラはいる?」
「こちらに」
レーゼラが音もなく部屋の片隅に現れる。
「レーゼラ。視察団にカシミルドも付いて行くんですって!」
「カシミルド?」
レーゼラは状況が飲み込めずにいた。
珍しくリュミエ様が興奮気味だ。
すぐに怒って気持ちが高ぶるリュミエ様だか、今日は違う。愉しそうにはしゃいでいる?
困惑するレーゼラにレーゼルも首をかしげて、珍しく笑いかけてきた。レーゼルが笑うのも珍しい。
この部屋で何があったのだろう。
「フフフ。あの方の名前よ! そうだ。レーゼル! クロゥは解放してあげて。もう必要ないわ。……これから毎日楽しくなるわ!」
リュミエが絵に描いたように喜んでいる。
レーゼルとレーゼラは顔を見合わせた。
「初めてですね」
「ああ、初めてだ」
「こんなに舞い上がったリュミエ様」
嬉しいような、嬉しくないような。
何か事を起こすのではないかと……先が思いやられる二人であった。




