第三十八話 脱出
「水の精霊よ――」
カシミルドの声に反応し、ラルムの周りに集まっていた水の精霊たちが急に向きを変えた。
「あっ。――何?」
ラルムの意思を無視して魔法が解かれる。
紡いだ呪文も魔方陣も、光の粒子となって溶けていく。
ラルムは悔しくて水晶を持つ手が怒りで震えた。
「ラルム。もう魔法は大丈夫だから。こっち」
シエルはラルムの手を引き、木の根を二人で登っていく。
「シエルっ。どういう事? 私、木登りなんて出来ないよ。待って」
「ラルムっ。ほら俺の手を握って」
「きゃっ」
ラルムのスカートが木の根に引っ掛かり、裾が裂け太ももが覗く。
下に誰もいなくて良かった。
ラルムはマントで足元を隠した。
まだ数メートルしか登れていない事に、シエルは焦りを見せた。
しかし瓦礫に佇むカシミルドを見ると、まだ詠唱を始めたばかりのようだ。
今のうちにもう少し上へ……。
シエルが視線を上に向けた時、カシミルドの声が微かに聞こえた。
ラルムは精霊の流れを感じ、カシミルドに目を奪われる。
「――我が声に従え。我が名はカシミルド=ファタリテ。我が思うままに、その力を示せ――」
カシミルドが言葉を発すると、周囲に青白い光か散らばり、足元に魔方陣が浮かび上がる。
遠くの方から地響きが伝わる。
シエルとラルムは目を丸くさせ、お互いの顔を見合わせた。
「ねぇ。シエル? 今のは何!? あんな言葉で陣を描き、精霊を呼び寄せるつもり?……嘘でしょ」
ラルムは眉を潜め、信じられない様子でカシミルドを見つめた。
今までラルムが見てきた魔法とは格が違う。
呪文書に書かれた長い文言は何だったのだろう。
ラルムが汗水流して紡いできた魔法陣を一瞬で描くなんて……。
シエルも顔に引きつった笑みを浮かべている。
これが、選定の儀で炎柱をだした人間の力……。
そう言えば炎柱は二色だった。
だから色々な系統の魔法が使えるのだろうか……。
カシミルドに魅いっていると、会場全体がギシギシと軋み始めた。
締め切られていた扉という扉が一斉に開き、鉄砲水のような水流が流れ込んできた。
水流は黒い炎を呑み込み、壇上も一気に水没していった。
「ラルム、ここじゃ不味い。もっと上がるぞ」
「うん」
「はい。カシミルドやり過ぎー。ずぶ濡れ確定だな」
木の枝で寝転んでいたクロゥは、体を起こして天井ギリギリまで浮かび上がった。
ラルムとシエルは上を目指すも、激流に呑み込まれる。
シエルは水没する前に呪文を唱えていた。
旋風が巻き起こり、シエルとラルムを風の精霊が渦を巻いて水上へと運んで行ったが、激しい水の勢いに旋風は欠き消され、二人は水中に引き戻される。
水泡で守られたカンナ達以外は、水に呑み込まれ、激流の中、流されないように必死で枝に掴まっていた。
シエルはラルムを抱き抱え、何とか近くの枝に掴まった。
しかしここは水中、息が出来ず次第に苦しくなる。
そろそろ限界と思った時、急に目の前の水が裂けた。
掴んでいた枝も消え、宙に投げ出されかけたが、直ぐ足元に生えた太い枝に救われた。
「ごほっげほっ。ラルム?」
「大丈夫よ。え? これは?」
シエルとラルムがいるところだけ、ポッカリと水に穴が空いていた。
見上げると会場の天井が見えた。
テツが十メートル程ある水上から、水の上を滑り二人の所まで降りてきた。
「大丈夫か? 長くは持たない。上がれるか?」
「は、はい!」
正直ヘトヘトで動けそうになかったが、シエルは思わずそう返事をした。
三人が水上を目指そうとした時、急に水かさが減り、天井まで達していた水が、黒い炎と共に一気に会場から消え去った。
カシミルド達とテツ、シエルそしてラルム以外の者は皆気絶していた。
会場を騒がせた黒炎や水流は消えた。
巨木によって支えられた崩壊寸前の会場は静けさを取り戻す。
一仕事終えたカシミルドは、濡れた服を叩き水気を飛ばした。
メイ子は大丈夫だろうか。
壇上へ急ごうとしたがテツに呼び止められた。
「礼を言うよ。カシミルド君。これから避難するが、君も一緒に来ないか?」
隣に降りてきたクロゥは、物凄い勢いで首を横に振る。
「やめておきます。まだやり残した事があるので」
「そうか……残念だな。しかし君の連れの者たちの事を考えたら賢明な判断だ。――落ち着いたら訪ねて来るがいい。ユメアも喜ぶ。その際は手紙を寄こしたまえ、迎えを送る…………君が何もしなければ、こちらからでも迎えに行くからな、覚えておいてくれ。――カシミルド=ファタリテ……君」
「ですよね。わかりました。僕から便りを送ります。――テツ=イリュジオンさん」
クロゥは二人の会話を聞いて肩を落とした。
今回の件でカシミルドは、テツの所に出頭しなければならなくなったようだ。
「カシミルド君! 待ってください。――あの。また会えますよね? 私、貴方のこと、もっと知りたいんです!」
ずぶ濡れのラルムに詰め寄られ、カシミルドは目のやり場と返答に困る。
「あっと……その。巻き込んで、すみませんでした。怪我は……」
「そんなのどうでもいいんです! カシミルド君の王都にきた理由はこのオークションですか? もう、王都を離れちゃいますか?」
「うーん。オークションが目的では無いけど、ここにいる理由はもう無いかな」
ラルムは不満そうに口を尖らせた。
今にも泣きそうだった瞳に、強い意志が滲む。
「テツ様の召還に応える気はありますか? どうにかして逃げようとしていませんか? カシミルド=ファタリテ。貴方の本当の名前。――名前さえ分かれば、地の底でも海の底でも、貴方の事を探し出しますからね」
ラルムはカシミルドに宣戦布告した。
テツは後ろで笑って聞いていた。
シエルの鋭い視線がカシミルドに突き刺さる。
「ラルム君。話はまた今度だ。天井が崩落しそうだ。カシミルド君。――いずれまた会おう。では失礼する」
テツはマントを翻し、シエルに参加者達の避難を指示した。
ラルムはがっかりした表情でカシミルドに背を向けた。
カシミルドはマントから水を滴らせているラルムに、
「ラルムさん。――夜風は冷えるから……」
そう言うと、ラルムの背中を数回軽く叩いた。
ラルムの全身を生温い風が巡る。
くすぐったくて背中を反らす。
振り返るとカシミルドは壇上の方へ走り去っていた。
何をされたのか、よくわからなかったが、体が温まったような気がした。
ラルムの髪も服もすっかり乾いていた。
◇◇◇◇
「メイ子。カンナ。スピラルは?」
「傷口は塞いだなの。でも、血が沢山出たから、……今夜が峠なの。出来れば、ゆっくりベッドで寝かせてあげて欲しいなの」
「メイ子ちゃんも休まないと……」
カンナがフラフラのメイ子を抱き留めて言った。
「御主人様。私とメイはアンとその娘を連れて、魔獣界に戻りますわ。アンの心臓が動いている間に……」
シレーヌはそう言うと皆に背を向けた。
「メイ子ちゃん。スピラルには私が付いてるから。行って」
「ありがとなの。カシィたま。魔獣界に帰してなの」
「うん。またね、メイ子……」
「また喚んでなの。……それで、魔獣界に帰して欲しいなの」
魔獣界に帰して欲しい。
カシミルドはそんな事初めて言われた。
言葉の意味は分かるが、カシミルドに言う意味はわからない。
「御主人様。この場所は少し特殊ですの。ですから御主人様に魔獣界への扉を開いていただかないと……戻れませんの」
「え? 何それ! どうやればいいのか……」
シレーヌが溜め息をついた。
「いつもと同じですわ。難しく考えずに」
「ただ帰したいと強く思えば?」
シレーヌの言葉の続きをカシミルドは声に出して言った。シレーヌはクスッと声を漏らした。
「扉は、いつもすぐ手の届くところにありますの。――小さくて堅くて……見えそうで見えない扉ですわ」
カシミルドは手を前方に伸ばした。
手が届くならこの範囲内にあるのか?
手探りで辺りを探るが何もない。
目を瞑り右手を握ると掌の中に硬くて平らな銅貨のような物を感じた。
目を開けると何もないし、触ることも出来なくなる。
見えそうで見えない……。
それなら――目を瞑るとまた掌に感じる。
どうやったら開くのだろう。
右手で掴み、左の中指でその硬い物を弾いてみた。
しかし力を入れすぎ、それは何処かへ飛んでいってしまった。
「あっ。――あれ? シレーヌ達は……?」
「カシィ君が、何か仕出かしちゃった時みたいに、あっ。って言った時に消えたよ」
「そっか……。良かった。――僕たちも帰ろう」
「うん」
カンナはスピラルを背負った。
カシミルドが交代しようと持ち掛けるが、スピラルは女の子だし駄目だと言われた。
入り口へ向かうカシミルド達を見て、シエルは参加者の一人を運ぶ手を止め、テツに尋ねた。
「あの……。あいつら放っといていいんですか? それにあいつらが来なかったら、こんなことには……」
「そうだな。確かに想定外であったが……これは闇オークションで起きたことだ。全ては闇に葬り去られるべき出来事……という事で良いのではないか?」
「……何かしっくりこないです。――聞こうか迷ったんですけど、何で貴方がここにいらっしゃるんですか?」
「はははっ。それは秘密だよ。――君達も、親に知られたら困るだろう? はははっ」
テツは笑顔でシエルに圧をかけた。
シエルは悟った。この人を敵に回すとヤバい……と。
◇◇◇◇
カシミルド達は第二王区の井戸から地上に出て、そのすぐ近くの壁の前で立ち往生していた。
この壁の向こうは三区だ。
この壁さえ越えられれば良いのだが。
クロゥが壁とカシミルドの間に立ち、腕を組み自信満々で言い放つ。
「では! 俺様のアイデアを発表しよう!――カンナちゃんは知らないと思うが、俺様、空飛べるんだ」
「知ってます」
「あー。言い方が悪かったな。鳥にならなくても飛べるって事。――でだな。お前もやれ」
「えっ? 僕?」
クロゥはやけに楽しそうに首を縦に何度も振る。
「飛ぶんだよ。自分の翼で! 気持ちいいぜ!――いいか、魔力って言うのは具現化できるんだ。そーだな。例えば、シレーヌの水泡とか、魔方陣もそうだ」
「翼って……ミヌ島で姉さんを追いかけてきた時みたいにだよね?――僕は姉さんみたいに箒で飛びたい」
「出た! シスコン!――箒は、箒がないと飛べないだろ? どんな時でも自分の力だけで飛べることに越したことはない筈だ」
カンナが民家の裏から箒を持って出てきた。
「箒あったよ? どうする?」
「!?」
クロゥはカンナから箒を取り上げると、その場で勢いよくへし折った。
「ほら。箒はすぐ壊れるからなっ。俺が初回限定大サービスで、翼を成型してやっから任せろって」
「そのノリノリな所が一番の心配の種なんだよ……そうだ。クロゥが一人ずつでいいから壁を越えて運んでくれればいいだろ?」
「あーそれ無理。朝からお前の訓練に付き合ったあげく、さっきまででっけぇ木を出してたんだぜ。しかも燃えないようにずっと俺様の魔力で護ってた訳。そういう細かいこと苦手だから疲れてんだよ。自分のことは、自分で! な!」
カンナは不安そうに二人のやり取りを聞いていた。




