第三話 略式召喚
イリュジオン王国最西端の島、ミヌ島には、この国で一番高いノワール山が聳え立ち、その山麓には幾つかの村が点在する。
ノワール山は鉱山としても有名で村々はそれなりに潤っている。
黒の一族はこの山の中腹の辺りに、ひっそりと暮らす。
ミラルドの五代程前の族長の頃から、里を中心に、他者からの干渉を絶つために結界を張っているという。結界は現族長であるミラルドが作り出している。
ミラルドの許可がないとこの結界を通ることは出来ない。
カシミルドは書庫のソファーに座り込み頭を悩ませていた。
姉、ミラルドの事で。
ミラルドは多分……。
カシミルドをこの島から出すことは無いだろう。
姉はとても過保護で心配性。
子供の頃カシミルドは誘拐されたことがあるらしい。
結界の外の、ここから一番近いペシュ村の外れで遊んでいた時だそうだ。
あれ以来、村には一度も行っていないし、結界から一歩も出た事がない。
いや、出る事を許可された事がない。
買い出しも、村の雑貨屋に便りを出して、結界の境界線に建てられた小屋まで物資を届けてもらっている。
カシミルドは結界からは出ず、麓の小屋に物資を取りに行くだけである。
それに……姉は怒らせると恐いのだ。
カシミルドは眉間にシワを寄せ、一つの答えを出した。
「バレずにこっそり。それが一番平和なやり方だ」
メイ子は考え込むカシミルドの頬に、心配そうにすり寄る。
「カチィたま? 誰にバレずになのの?」
そう問いかけられ、カシミルドは考えを口に出していたことに気付く。
メイ子に心配を掛けないようにしなくては。
只でさえ、お姉さんの事が、気が気ではないはずなのだから。
「僕の姉さんだよ。僕が行くことを絶対に許してくれないだろうからさ。どうにかバレないように、姉の結界から出る術を探さないと」
ミラルドに気付かれずに、結界から出る方法……そういえば、子供の頃はどうしていただろうか?
全く覚えていないが、誘拐されたのは結界の外だ。
どうもその前後がよく思い出せない。
「むむっ。メイ子良いこと思いついたなのの!! 結界の下を掘ってトンネルを作るなのの。それで地下から外へ行くなのの!!」
メイ子は自信満々に小さな右手を挙げて発言した。
カシミルドはそれを聞いてふと、思い出す。
地下……そうだ、井戸だ。
「古井戸だ。子供の頃、古井戸を通って村まで降りたんだ」
カシミルドの家から少し山を下った先に、鉱山の採掘の影響で壊れて使えなくなった古井戸がある。
里の規模も年々小さくなっていた事から、特に改修されることもなく、長年放置されてきた井戸だ。
この古井戸を降りてずっと進んで行くと、ペシュ村の近くまで行けるのだ。
メイ子と二人でその古井戸まで行ってみることにした。
全く手入れのされていない、伸びきった雑草の隙間を、メイ子は何かを察したかの様に、スイスイと進んでいく。
雑草を掻き分けた訳でもないのに、雑草に触れることなくクネクネ蛇状に進む姿を見ると、魔獣の生態の謎を改めて疑問に思う。
カシミルドは置いていかれまいと、背丈より高い雑草を掻き分けながら、メイ子に向かって真っ直ぐ進んでいった。
「見つけたなのの! 井戸なの! 水の音もしているなのの!」
雑草向こうからメイ子の歓喜の声がする。
すぐ近くだ。
壊れていた古井戸のはずなのに水?
メイ子の言葉に疑問を抱きつつカシミルドもすぐ井戸に着いた。
今までどうして忘れていたのだろう。
昔より少しじめじめした、でもあの頃と変わらぬ姿の古井戸が目の前に現れた。
覗き込むと吸い込まれそうな錯覚に囚われながら、二十メートルほどの深さだった井戸の底が、数メートル先に見えた。
「あれ? 水が沸いている?」
壊れていた筈なのに……最近雨が多いからか?
それとも姉が作り出した幻か何かだろうか?
カシミルドは試しに小石を投げ込む。
小石はチャンポン、と音をたてて水面を揺らす。
本当に水のようだ。
水と睨めっこしているカシミルドを見て、
「水? だめなのの? あ! カチィたま泳げないなのの!?」
自分は泳げるぞー。という顔でメイ子はカシミルドを哀れみの目で見て言った。カシミルドはその目に我慢できずに反論する。
「泳げるとかそういう問題じゃないんだよ。この井戸を抜けるのに、急いでも数時間はかかるんだよ。ここまで水が来ているなら、村に行くまでの道のりは水の中を進んでいくことになるね。井戸からは無理かな」
「むむぅ~なの。メイ子もそんなに水の中にいたらふやけちゃうなのの……でも、メイ子の友だちなら大丈夫なのの。お友だちに頼むなのっ!!」
メイ子の提案はいつも突然で意味不明なことが多い、だが不可能を可能に変えてくれそうな不思議な気持ちにさせてくれる。
「メイ子の友だち? どんな子? 魔獣なの?」
メイ子は空中で大きく頷いた。
「泳ぐのが得意で、チレーヌって言う人魚種の魔獣なのの。物知りだし、きっと水の事なら何でも解決してくれるなのの。ささっ、カチィたま。早く喚ぶなのの」
「えっ? 僕が喚ぶの? メイ子の友だちでしょ」
二人は顔を見合わせる。
メイ子はカシミルドを心底がっかりした目でみた。
そして、むぅーと大きく溜め息を吐いて面倒臭そうに言った。
「カチィたま。ここどこだかわかっていますなの? メイ子もチレーヌも、魔獣界に住んでるなの。一度魔獣界に行くと、こっちの世界に戻ることは簡単じゃないなのの」
メイ子は教え諭すように言うがカシミルドはによく分からない。
メイ子はいつも勝手に来るくせに、何を言っているのだろうかと思う。
「メイ子はさ、いつもどうやって来ているの? その方法でこっちに一緒に来られないのかな?」
メイ子は小さな口を大きくポカーンと開けて、呆れてものも言えない様子だ。暫く動かなかったが、ようやく言葉を紡ぎ始める。
「カ……カチィたまが、メイ子を喚んでくれるから、こっちに来れるなのの。今までメイ子を只のヒマ魔獣だとでも、思ってたなのの!? 心外なのの。むむぅ~。兎にも角にも、やってみるなの。魔獣界から、チレーヌを喚ぶなのの」
魔獣界から、魔獣を喚び出す。
それ即ち召喚魔法じゃないか。
メイ子だって知っているはずだ、カシミルドがいつも失敗ばかりしてきたことを。
五年間も魔導書に振られ続け、今日も空振りに終わった傷心中のカシミルドを。
「むむぅ。迷ってないでいつもメイ子を喚ぶみたいにやるなのの。簡単なの」
メイ子を喚ぶようにと言っても、いつも何もしていない。
ただ……メイ子の事を考えるといつもメイ子は急に現れた……それが、喚んだことになるのだろうか。
「難しく考えることないなのの。いつものようになの」
難しく考えないことがこんなに難しいとは。
カシミルドは頭を抱えた。
「メイ子。召喚魔法を使うにはね、魔方陣とか、呪文とか術式とか色々な知識と修行が必要なんだと思うんだよ。だから……」
僕には出来ないんだよ。
口にしてしまうと、一生かかっても出来なくなってしまうような気がして、カシミルドは口をつぐむ。
「むむぅ。メイ子は人間が使う難しい言葉はよくわからないなのの。でも、魔獣界のみんなは、カチィたまの事大好きなのの。魔獣界は魔獣達を守るために、遠ーい昔のカチィたま達が造った、こことはちょっと違う世界なのの。だからみんなに、カチィたまの声ならすぐに届くはずなのの。だから、だから……むぅ」
簡単だと言っていたメイ子まで、どう言い表したら良いのか思い惑う。
黒の一族の御先祖様達が造った世界?
だから、黒の一族しか召喚魔法が使えないのか?
じゃあ何故今召喚魔法が使える者がいないんだろう。
ミラルドは言っていた。
古代文字は読めないが、呪術の本の古代文字は読めると。
自分に必要な物は、自ずと理解できる。
息を吸うのと同じように、夜眠くなるのと同じように、誰からも教えられていないのに、生まれる前から知っている事のように解るのだと言う。
「僕にも、解る事ができるだろうか」
「カチィたま。目を閉じるなのの。きっと、魔法はカチィたまの中で眠ってるだけなのの。心に聴くなの。身体に従うなの。チレーヌに声を届けるなのの!!」
カシミルドはメイ子の声に従い目を閉じる。
魔獣界、それはどんなところだろう。
チレーヌ、君はどこにいるのだろう。
僕はそれを知っているのだろうか?
呪文も術式も何も思い浮かばない。
僕の中には……何もない。
ピチャン……。
遠くの水面で何かが飛び跳ねたような音がした。
「水?」
「何か見えましたなのの? 呪文とか何とかとか見えたなのの?」
呪文……何とか……ってなんだ?
でも、そんな物は何も見えない。
ただただ真っ白な中に、水の音だけがまた響く。
ピチャン……。そして透き通った女性の声がした。
――クスクス。シレーヌ……そうお呼びくださいな――
「声がした……それに水の音がする」
「むむぅ。チレーヌは近くに居るなの、後はこちらに喚ぶだけなの」
しかし、カシミルドには何も思い浮かばない。
必要な物は僕の中に?
メイ子を呼ぶ時も何かしたか?……何もない?
それは、無いのではなくて、必要が無い……から?
本当にただ呼べばよいだけなのか……。
面倒な魔方陣も術式も解かなくていいかな。
そうだ、僕には必要ない。
そんな物は省略してもいいんだ。
カシミルドが小さく息を吸い込む。
周囲の空気が変わる。
カシミルドの身体から、金色の魔力が溢れだす。
大陸を飛び交う精霊達が彼の魔力に魅了された。
人間の魔力は魔獣にとってもご馳走である。
メイ子も涎を垂らして御執心な様子だ。
「略式召喚。シレーヌよ。我の元に来い。我が名はカシミルド=ファタリテ。汝らの導き手なり」
井戸から光が溢れだす。瞳が熱く視界がぼやける。
ゴゴゴゴゴッと、地下深くから大量の水が唸るような音が辺りに響く。
刹那、井戸から数十メートルの水柱が発った。
水柱は噴水のように四方に別れ、水沫は、それらがまるで生きているかのように自由に飛び散り周りの木々を潤す。
メイ子程の大きさの水泡が上空からゆっくりとカシミルドの目の前までフワリと降りてきた。
よく見ると水泡の中に、小さな女の子がいる。
女の子はカシミルドと目が合うと、ニッコリと笑った。
「初めまして。私、荒波の魔獣、セイレーン種が一人、シレーヌと申します」
シレーヌは礼儀正しく深々とお辞儀をした。