第一話 いつもの朝
――――遡ること、三日前。
今日もいつもと同じ朝を迎える。
天気がいい。
ベッドから起き上がり、顔を洗いに行く。
鏡の前に立つと、いつもの寝癖だらけの黒髪の少年がいる。
カシミルド=ファタリテ、十四歳。
髪も瞳も真っ黒の黒の召喚士の一人。
冷たい水で顔を洗い眠気を覚まし、腰まで伸びた長い黒髪を、雑に三つ編みに結う。
朝食はカシミルドの担当だ。調味料や調理器具が雑然と置かれるキッチンで、手際よく二人分のパンケーキを作り始める。
「おはよー。ホレ! やさーい」
カシミルドの気配を感じ取ったのか、姉が庭から野菜を採って戻ってきた。今日一日分の野菜が入ったカゴをカシミルドの横に置くと、パンを手にまた外へと出ていった。
朝から慌ただしい人だ。
「クロゥ!朝ごはんよー!」
姉が庭にパンくずをまく。
小鳥たちは喜んでパンをつついているが、姉が呼び掛けたクロゥ自身は庭の木から降りようともしない。
クロゥとは、昔から我が家に代々仕えている黒鳥。
今日は手乗りサイズで可愛らしい。
大体いつもそれぐらいの大きさだが、たまに大きくなったり、もっと小さくなったりもする。
魔獣の一種かと尋ねたことがあるが、ちがうと言われた。
正体不明の鳥だ。
カシミルドには無駄口ばかりたたく癖に、姉には一言も話さない。
ミラルド=ファタリテ。十八歳。
背が高く目は切れ長、美人ではあるが、少々せっかちなところが玉に瑕のカシミルドのたった一人の姉だ。
黒の召喚士の若き族長として、自分にも周りの人間にも厳しい姉だが、クロゥにだけは優しい。
毎日餌をやり、何かしら話しかけている。
クロゥはそんな姉さんになついている訳でもなく、完全に無視だ。
それでも、姉さんは満足気だからよしとしよう。
クロゥに、というより庭の鳥達に餌をやり終えると、ミラルドは長い黒髪を適当に束ねながら、カシミルドに視線を送る。
はい。パンケーキの催促ですね。急ぎます。
食卓にパンケーキとサラダとお茶を並べる。カシミルドはパンケーキにたっぷりとハチミツをかけバターを乗せて食べるのが大好きだ。
今日も機嫌良くハチミツをかけていると、
「かけすぎ」
ミラルドがカシミルドの方も見ずに言い放つ。
自分の分しかかけていないのだから、放っておいてくれればいいのに。
ほぼ毎日、何かしらミラルドからのお言葉を頂戴している。
カシミルドがパンケーキを半分食べ終える頃、ミラルドはさっさと食器を下げ、カシミルドの後ろに立つ。
これもいつもの事だが、できれば食事の後にして欲しいと思う。
ミラルドは大きく息を吸い込むと、カシミルドの後頭部に右手を乗せ、呪文を唱える。
「我が峰に属する全ての精霊たちよ。彼の者を守りたまえ。故に我に彼の力を委ねろ」
カシミルドの首筋から背中にかけて、ミラルドに施された呪印が金色に浮かび上がる。呪印を中心に全身に熱を感じ、じわりじわりと、金色の光が呪印から滲み出てくる。その光がカシミルドをすっぽり包み込むと、ミラルドは頭から手を離す。
カシミルドは、憑き物でもとれたかの様に、一瞬で身体が軽くなるのを感じた。
金色の光はミラルドの右掌に収まり、中指にはめた指輪の水晶の中に吸い込まれていく。
我が家の朝の恒例儀式だ。
姉は呪術を得意とする精霊使い。
言霊の力が強く、杖とか魔法道具の類も使わず、地上に住まう精霊を、言葉で制し、従える。
いつも姉の言葉に逆らえないのは、この力のせいだろうか。
「ハイ。終わり。これももう駄目ね」
先程まで金色の光を帯びていた指輪の水晶が真っ黒に染まっている。ミラルドは手慣れた様子で台座から黒くなった水晶を外し、テーブルの上の小さな籠の中に放り込む。
そして新しい水晶を…
「あっ。替えの水晶ないじゃない」
ミラルドが不満そうに口を尖らせながら、カシミルドの方をチラリと見た。
「ペシュ村に便りを出しておくよ。明日、麓まで取りに行くから」
その言葉を聞くと、満足そうに微笑み、
「そうね。じゃっ後はよろしく」
そう言い捨て、ミラルドは家の裏の森の祠へと出かけて行った。
朝の嵐が過ぎ去ったかと思うと、窓からあどけない少年の声がする。
「カシィー。パンケーキ半分くれよー」
窓枠に乗って、ひょっこりクロゥが顔を出して言った。朝食はいつもカシミルドのパンケーキを貰いにくる。
「ん。小さく切るから待っていて。姉さんからもらったパンは食べないの?」
そう言ってから、カシミルドはパンケーキを半分残して、もう半分は一気に頬張る。ナイフで一口大のサイズにパンケーキを切っている間、クロゥは窓辺で機嫌良く話し始めた。
「俺に砂まみれのパン食えって言うの? 何で皿に乗っけねぇのかな? 俺が鳥だからか? なぁ、お前からねぇちゃんに言ってやってよ」
クロゥの愚痴もいつもの事だ。カシミルドはそれを鼻で笑い聞き流し、クロゥの目の前にハチミツたっぷりのパンケーキを置いた。
クロゥの目がキラリと光る。
「お前本当に甘党だよなぁ。ハチミツかけすぎだよ。まぁ、俺もこれぐらいが好きなんだけどなぁ」
クロゥは大好物を目の前に、リズム良く尾羽をフリフリ揺らし、鳥らしくツンツンつついて食べている。
口が悪く生意気な奴だが、食べている姿は可愛いらしく、カシミルドはいつも癒されている。
それに、唯一の甘党仲間だ。
「食べているときは可愛いんだけどな」
カシミルドは少しの間クロゥの様子を見て楽しむ。そして、
「クロゥ。僕は書斎に行くから。またな」
「おぅ」
食べる事に夢中な様子だか、右の翼をバサッとあげて返事をしてくれる。
こういうところも何だか憎めない奴だ。
家の中心にある書庫は、窓が一つもなく、壁一面に本棚が置かれ、部屋の真ん中に二人がけのソファーとテーブルが一つ置いてあるだけの部屋だ。
天井から吊るされたいくつかのランタンに灯をともすと、灯に照らされ本棚にぎっしりと敷き詰められた古い本たちが顔を覗かせる。
どれも、魔法に使われている古代の文字で記されている。
ミラルドが施した呪印も同じく古代文字が使われている。
カシミルドはテーブルに置かれた一冊の本を手に取る。
この本は空にについて書かれたものだ。
空に浮かぶ雲や雷の絵の横に、びっしりと古代文字で説明が書かれている。正確には、多分そう書かれていると思うのだが。
カシミルドは、古代文字が一切読めないのだ。
絵を見て、何となく本の系統は分かるのだが、字は読めない。
しかし、カシミルドにも一冊だけ読める本がある。
それは天使と人の恋を物語にした絵本だ。
小さい頃から大好きだったこの絵本だけは何故か読める。
ただ、読めているのか、内容を知っていて読めた気になっているだけなのかは定かではない。
この書庫の扉を見つけたのは、カシミルドが九歳の頃だった。家の手伝いを一人でも出来るようになり、掃除や片付けに全く興味の無い姉の代わりに暖炉横に山のように積み置かれた本を片付けようと思った時だ。
これは姉さんが読み漁ってそのまま置きっぱなしにしてきた呪術関連の魔道書たちだった。埃を叩いて、本の大きさ毎に揃えて重ねていくと、本が置いてあった場所の壁に小さな扉を見つけた。
四つん這いになれば、人ひとり通れそうなその扉。
その扉には、ファタリテ家の黒い六枚の鳥の羽が象られた紋章が描かれていた。
ドアノブのない不思議な扉だったが、カシミルドが触れると、触れた感触も無いまま、スーっと扉は消えたのである。
扉があった先は真っ暗で何も見えない。
この先には何があるのだろう、ファタリテ家に代々伝わる秘宝?
それとも、広い地下室があったりして。
九歳のカシミルドは、期待に胸を躍らせた。
結局のところ、秘宝なんか無かったし、部屋もそんなに広くもない、ただの書庫だったけれど。
でもカシミルドはこの場所が気に入った。
ミラルドもこの書庫の事を知っていたけれど、本を探しに来ることは無かったし、自分だけの秘密基地みたいで、午前中はよく書庫にこもっては、気になった本を片端から開いていった。
カシミルドは召喚魔法が使えるようになりたかった。
黒の召喚士の一族だというのに、今現在召喚魔法が使える魔法使いは一族に存在しない。
きっとこの書庫には、召喚術に関する本もあるはずだ。
カシミルドは毎日ワクワクしながら通い続けた。
ただ、文字が読めないのは致命的だった。
姉は古代文字を用いた呪術が使える。
きっと姉なら古代文字が読めるのだと思い、姉に相談したことがあった。
しかし姉には、
「父さんが教えてくれるはずだったのに……居なくなったから知らない」
と、怒鳴られてしまった。そして、
「母さんが生きていれば……」
と泣き崩れてしまったのだ。
姉の涙はあの日以来見ていない。
一族最後の召喚士は前族長であるカシミルドの母親だった。
母は身体が弱く、カシミルドを産み落とした後、すぐに亡くなった。
父親は母の死後、ミラルドとカシミルドを義妹夫婦に任せて旅に出てしまったそうだ。よくよく考えてみたら、母は自分のせいで死んでしまったようなものなのに、叔母さんも姉も僕のことを責めたりしたことなんて一度もなかった。
大切に育ててくれた。
召喚魔法についても姉の知っていることを聞きたかったけれど、それは母のことを聞くことになってしまう。母の話は姉にするのは止めておこうと思った。
しかし翌日、姉は母の召喚魔法を見たことがある、という話をしてくれた。母は風を司るハルちゃんという魔獣を召喚していたという。
召喚、魔獣、胸の奥がくすぐったくなるような言葉が沢山出てきた。僕は姉さんの話に身を乗り出し、一言も聞き逃さないように夢中で聞いた。
母は魔方陣を地面に描き、杖に風の精霊を集めて、呪文を唱えて召喚していたらしい。それを聞いたカシミルドは、本に載っている魔方陣や呪文のような部分を毎日地面に真似して描いて試し続けていた。
しかし現実は甘くない。
本棚の端から順番に攻めていったが、召喚できたことは一度もなく、全て失敗に終わっている。
今から試す魔方陣で、この本も終わる。
五年間、読む事もできない魔導書を相手に試行錯誤してきた。まだ開いていない本は部屋の半分を埋める量ではあるが、諦める気はない。
陣を消さない様に、ゆっくりと魔方陣の中央に立ち、魔力を込める。
「我峰に属する精霊よ。我に力を貸せ」
姉の真似をすると、精霊たちが集まってくるのを感じる。
生暖かい光が大気中から溢れ出す。
魔方陣はカシミルドの足元から光の水を一気に流し込んだかのように輝き、そして一瞬強く青白く輝いたかと思うと、スッと消えてしまった。
辺りは耳が痛くなるほどの静けさだ。
「またダメか」
カシミルドはがっくり肩を落とし、空を見上げた。
雲行きが怪しい。
「一雨来そうだな」
春になったばかりだというのに、最近は洪水のような雨がよく降る。
山の天気は変わりやすい。
この雨もすぐにいってしまうだろう。
今日も畑の水やりをサボれると思うと、家へ向かう足取りも軽い。家に戻ったら、次の本を出して、魔方陣を描く練習でもしよう。
カシミルドは、書庫に入り次の本を探す。
雨と共に、外は雷が勢いを増しているようだが、書庫には何も響いても来ない。この書庫を守るために何か特別な魔法がかけられているのだろう。
一ヶ月も共に試行を重ねてきた本を、少し寂しげに本棚に戻す。本の後半になればなるほど、カシミルドの期待はいつも高まる。
魔方陣がどんどん複雑になっていくからだ。この本も違ったかと思うと、このやり方が正しいのか不安になることもある。
そんな時はいつも、励ましの声が飛んでくる。
そう、いつもなら……、
「そういえば、今日はまだ見てないな………」
今日は最後の魔方陣ということですっかり忘れていたが、メイ子がまだ来ていないことに気付く。
いつも騒々しいメイ子がいないと、何だか寂しい。
そう思った時、頭の上のもっと遠くの方から声が聞こえた。
声はどんどん近づいてくる。
「…たまー。カチィたまー。大変なののぉぉぉー!」
慌ただしい声と共に頭の上に白い毛玉がポコンと降ってきた。いつも何処からともなく現れるのだが、こんなに慌てふためく姿は珍しい。
いや初めてだ。
カシミルドの顔の前にフワリと浮かび、目をパチパチさせながらメイ子は話し出す。
「今日はお願いがあって、参りましたなののぉ!」
声色から察するに悪い話ではないようだ。
この小さな白い毛玉の魔獣、メイ子によって。
カシミルドのいつもの毎日は終わりを告げる。
そして、自らの生まれ持った運命は流転していくのであった。