第百二話 酔い覚まし
「カンナ……カンナ君?」
「ふぁ~。大丈夫れす……」
「……駄目そうだな」
会場と繋がったバルコニーの隅で、カンナは赤い顔で椅子にもたれ掛かっていた。テツはその横で水を片手に苦笑いだ。
「すまない、止めていれば良かったな……大丈夫か?」
「大丈夫れすよ。ちゃんと……宿まで歩けまふからぁ~」
まさかラージュに勧められた飲み物が酒だったとは気が付かなかった。カンナより先に口にしておけば良かったとテツは反省していた。
「仕方ない。今夜は私の部屋に泊まっていきなさい。私は──」
言いかけた時、会場から誰かがバルコニーに現れた。
「あ! テツ様。こんなところにっ。……こいつどうにかって──そっちもですか?」
シエルは、赤い顔のカンナを見てため息を漏らす。
自分も酔っ払ったカシミルドに肩を貸しているからだ。
酔いを覚まそうとベランダに連れて来たのだが、カシミルドは千鳥足である。
二人の後ろには不機嫌そうなルミエルもいる。
しかしルミエルは、テツを見ると悪戯に微笑んだ。
「テツ。カンナを酔わせてどこに連れ込むつもりでしたの?」
「ルミエル君。私はそんなつもりは……」
「へぇ~?」
ニヤニヤとテツを見て笑うルミエルを横目に、シエルは気持ち良さそうに肩で眠るカシミルドを見てため息をつく。
「それよりどうしますか? そこの怪力女に、こいつを宿まで送って貰おうと思ったんですけど……」
「カンナ君は私の部屋に泊めるよ。それで……」
「うわ~。やっぱり。ほら! ねぇ。シエル!?」
ルミエルがテツを指差し大袈裟にシエルに同意を求めた。
テツがそんなルミエルに小さく咳払いする。
「こほん……私はシエルの部屋に泊まろうかと言いたかったんだがな」
「またまたぁ~ご冗談ですの。あ、そう言えば。ラルムも酔わされてましたわ。あの、ヴェルメイユとかいう女に……」
「えっ!?」
シエルの顔つきが急に強張った。
ラルムが酒で酔った姿など、見たことがなかったからだ。
ラルムは母親譲りで酒に強い。
「まさか。ラージュもテツ様と同じ考えを……」
「いやいや。私は違うのだが……」
「ああ~。どっちもやりそうですの!!」
歯を食い縛り怒りの形相のシエルを横に、ルミエルはテツの反応を楽しんでいる。
「ちっ……こいつ、お願いしますっ」
シエルはカシミルドを放り投げ会場に戻って行った。
ルミエルは床に転がされたカシミルドの寝顔を覗き込む。
さっきまで独り言を発していたが、今はぐっすり眠っている。
「ルミエル君……」
背中から聞こえるテツの声は、呆れと怒りが入り交じっている。
「そんな睨まないで下さる?」
「睨まれるようなことを言い出したのは君だろう?」
「それはテツが……」
「……ツ?」
ルミエルの足元から声がしたと思うと、バルコニーに転がるカシミルドがむくりと起き上がる。
「今、テツって言った?」
カシミルドは虚ろな瞳で周囲を見回し、テツと目が合うと急に立ち上がった。その足はフラフラで覚束ない。
「だ、大丈夫か。カシミルド君?」
「はぁ? 大丈夫かって、大丈夫じゃないですよ!!」
テツに向かい暴言を吐くカシミルドを前に、ルミエルは口元を押さえて笑いを堪えた。酔っぱらいが怒っていることが面白くてならない。
「カシミルド君。水でも飲みたま──」
パリンっ。と音を立ててグラスが割れた。
カシミルドがテツの手を払いのけたからだ。
拳を握りしめ震わせながら、これまでの苛立ちを全てぶつけるように、カシミルドは言葉を絞り出した。
「ズルいです。いつも優しくて……僕にも、カンナにも!!」
「カシィ……君?」
カンナもカシミルドの怒声に目を覚ます。しかし視界がボヤけて、夢なのか現実なのかよく分からなかった。
「カンナは……カンナは僕の幼馴染みで……家族で……だから、だから──絶対に渡しませんから!!」
テツもルミエルも、初めてカシミルドが怒った姿を見て、驚き呆然としていた。
「カシミルド……君……」
「失礼します……」
カシミルドはペコリとテツにお辞儀をすると、カンナを抱き上げた。
「えっ? か、カシィ君?」
椅子からヒョイっと持ち上げられ、突然浮遊感に襲われたカンナは意識をはっりとさせる。
「カンナ。帰ろう……宿へ。──ルミエル。スピラルのことよろしくね──」
カシミルドはそう言うと椅子を台にバルコニーの柵に足をかけた。
「ちょっと、カシミルド!?」
叫んだルミエルの肩にテツが手を乗せ耳元で指示を出した。
「ルミエル君。目眩ましの魔法を……」
「えっ? ……もぅっ!?」
ルミエルは怒りながらも小声で呪文を唱えた──その時。
カシミルドはバルコニーから飛び降りた。
「きゃっ」
カンナの小さな悲鳴を残して二人は消え、テツとルミエルだけがバルコニーに残された。
ルミエルはその場に崩れ落ち小さく丸く踞る。
「……また、置いていくなんて……酷すぎますわ……」
消え入りそうな声でルミエルは呟き、その背には哀愁がただよっていた。
「ならば一緒に飛んで帰るのはどうかね」
「……はぁ」
テツの提案に、ルミエルは深い溜め息をついた。
「溜め息を吐くと幸せが逃げていくそうだよ。素敵な格好が台無しだ……」
ルミエルはテツを一瞥すると、大きく息を吸い込んだ。
「これでよろしくて?」
「ぷっはははっ。そんなことしても意味が無いだろう?」
「あ、ありますの! な、何て失礼な男ですの!?」
「はははっ。──カシミルド君……珍しく怒っていたな。君は、いいのか? あの二人をそのまま行かせて」
「て、テツの方こそいいんですの? カンナにはドレスまで用意したのでしょう?」
「ああ。いいのだよ。私は……。私の隣など窮屈で仕方ないだろう?」
「……そうね。お城で存在が空気な王子様ですものね」
「笑顔でキツいことを言うな。流石ルミエル君だ……」
そう言ってテツはバルコニーから湖を、そしてエテの街を見下ろした。丁度カシミルドとカンナが宿屋に降り立つところだった。
「天使の祝福を受けたものでも、空は飛べない。そうアグは言っていたんだ。何故カシミルド君は飛べるのだろうか?」
「……まだ、子どもだからかしら」
「子ども?」
「はぁ。私も人間になりたいですの……」
「……人間に? ヴァベルを追って来たのだろう?」
「あーあ。何でこんな話をテツなんかにしているのかしら」
そう、ぶっきらぼうに言葉を投げ、ルミエルはボロボロと泣き出した。止め処なく流れる涙に、テツは狼狽える。
「る、ルミエル君も酒を嗜んだのか?」
「そんな訳ないでしょ!! ばか、テツのバカ!」
テツの言葉は火に油を注いでしまった。ルミエルは更に声を荒げ、顔を歪ませ涙を溢れさせながらテツを睨む。
「……すまない」
「……ねぇ。カシミルドって、カンナが好きなの?」
「さぁな。それは本人に聞くしかないだろう」
テツの冷めた声に、ルミエルは余計に苛立ちを覚えた。
そんな事分かっているが、出来るわけがない。
きっと聞いた瞬間に……言葉にしてもらわなくても、答えが分かってしまうから。
「……聞いてきてよ」
「私が聞いたら、あらぬ誤解を招くだろう?」
「いいじゃない。それで、カシミルドと正面からぶつかってカンナのこと奪ってきてよ……それで、私にカシミルドを頂戴よ──ねぇ。いいでしょ!?」
言ってルミエルはテツの胸をポカポカと殴った。
テツはそれを止めようともせず、ルミエルをただ優しく抱きしめた。
「君が本当に欲しいものは何なんだ。ルミエル?」
「わた、私は……──て、テツに何か言う訳ないでしょ!?──自分でも……分からないのだから……」
ルミエルはテツの胸に顔を預け、意外と居心地が良いことに気づく。しかし、自分が欲しいものは、これではない筈だ。テツを強く突き飛ばし、乱れた髪を手で直す。
「す、スピラルを迎えにいかなくちゃ!」
「……ルミエル君は、スピラル君の事を気にかけているのだな」
「別にいいでしょ? 野良猫は放っておけないのよ」
「……そうか。何か困ったら声をかけてくれ」
「ふんっ」
ルミエルはバルコニーに現れた時と同じ。
不機嫌なまま去っていった。
テツはその小さな背中を、無言で見送るのだった。