第九十二話 湖上の星(屋敷にて)
「足元に、星空が広がってるみたい……」
真っ直ぐ伸びた銀髪を風に揺らし、少女はバルコニーの手すりから身を乗り出すと眼下の湖を見て呟いた。
「ミィシア。気を付けるんだぞ?」
背後から声を掛けたのはヴァンだ。
心配そうにミィシアに目を向けている。
「はーい……」
「どうかしたのか?」
「ヴァンの弟さんに会ってから、レオ兄に会いたくなっちゃって……」
「……きっと、また会えるさ」
「うん。もしかしたら、近くにいるのかもしれないなって、思っちゃったの──よいしょっ」
ミィシアは頷くと、手すりに乗り上げ腰を下ろした。
足を宙に投げ出しブラブラと揺らして楽しんでいる。
「気を付けろよ?」
「大丈夫だよ。──きゃぁ」
「ミィシア!?」
振り向き様に体勢を崩したミィシアの手を、ヴァンは咄嗟に引き、抱き上げだ。軽いミィシアの体は、銀髪を散らしながらヴァンの胸に飛び込んできた。
「あ、ありがとう。ヴァン」
「全く、気を付けろと言ったばかりなのに……」
「えへへ……」
顔を赤らめ、ミィシアは照れくさそうに微笑んだ。
ヴァンはそんなミィシアの頭を優しく撫でる。
「明日の夜は、部外者も屋敷内に来るから、大人しく部屋で待っているんだぞ?」
「うん。何かあるの?」
「ああ。この屋敷の令嬢の婚約発表パーティーがあるんだ」
「ふぅん。踊ったり、ドレス着たりするの?」
「……ああ。知っているんだな」
「うん。人間とお友達のパト様に聞いたの!」
「へぇ。そんな人──いや、魔獣もいるのだな」
「うん。王都に住んでいてね。たまに帰ってくるとお話ししてくれるの。いいなぁ……」
「王都に……?」
ヴァンはミィシアの言葉に思考を巡らせた。
王都に魔獣が住んでいる?
しかし、人間と友達だと言っているから、潜伏しているのでは無く普通に暮らしているということだろうか。
「ヴァン? 怖い顔してる……」
「あ、すまない。その……パト様という魔獣は、何の為に王都にいるんだ?」
「……待ってるんだって」
「何をだ?」
「大切な人から預かった物を、いつかその人に返したいんだって」
「ほぅ……」
ヴァンは胸の奥に沸き上がる疑念を掻き消す様にミィシアの頭を軽く撫でながら瞳を閉じた。
預かった物という言葉が、人から受けた仕打ちだとしたら、敵に会ったときに仕返ししたいという意味にも取れる。
そうだとすると、地下で起きたことが魔獣の侵攻と捉えることもできる。
しかし、シエルの話からすると魔獣は無関係だとの事だから、ただの考えすぎか……。
「ヴァン。パト様は優しいんだよ。……だから、そんな怖い顔しないで?」
ミィシアはヴァンの胸に顔を埋め、ギュッと抱きついた。
ミィシアが優しい人だと言うのならそうなのだろう。
この子はとても敏感で頭のいい子だ。
「怖がらせてしまって悪かったな……」
「ううん。大丈夫……私、ヴァンの心臓の音を聞けば、ヴァンの気持ち、分かるもの。とても、心が落ち着くの」
「俺も、ミィシアといると優しい気持ちになれるよ」
「えへへ」
ミィシアはヴァンの胸に顔を埋めると心音に耳を傾けた。人間も自分と同じく血の通った生き物であることを再認識する。
──自分とヴァンを隔てるものは何なのだろうか。
ミィシアは夜空を見上げるヴァンに問いかけた。
「お星様、綺麗だね?」
「そうだな……綺麗だな」
同じ星空を見上げれば、ヴァンもそれを美しいと感じている。
そして、手すりから落ちかけたミィシアを助け、今もその身を案じ、夜景が見やすいように抱き上げてくれている。
相手を思いやる心をヴァンは持っている。
だからこそ、お互い理解し合えている。
それでも、このままずっと一緒にはいられないだろう。
お互い帰るべき場所がある。
そこに、共生の道は無いだろう。
もし、自分とヴァンを隔てるものは何なのだろうか、と彼に尋ねたら、何と答えるだろうか。
しかし、ミィシアは怖くて聞けなかった。
その答えを聞いてしまったら、それが現実であると受け止めなくてはならないから。
「そろそろ部屋に戻るぞ……」
「……もう少しだけ」
「仕方ないな……」
ミィシアはぼんやりとヴァンの視線の先を──彼が見る世界に少しでも触れたくて、交わりたくて──その瞳に焼き付けた。
空の星と湖に映る星。
夜風の冷たさとヴァンの温もり。
きっと何処にいても、空の星を見上げれば、この景色と温かさを思い出すだろう。
ミィシアは、今しかないこの時間を少しでも長くヴァンと共有できることを空に祈った。
◇◇◇◇
ラルムは自室の窓辺で資料を読んでいた。
五年ぶりに帰って来た自分の故郷。
住み慣れたはずの部屋は、全てが小さく見えた。
この部屋で過ごしたのは七歳の頃までだった。
あの頃は、椅子もベッドも窓も、そして空も湖も、もっと壮大なものに見えていたのに。
──こんなに小さかっただろうか。
夜の湖に船を出すと、まるで空の上を散歩しているようで大好きだった。しかし今はそんな気さえ起きない。
ラルムは深い溜め息をついた。
「はぁ。やっぱり、資料だけじゃ何とも言えないわね……明日の試作品を見てみないと……」
研究資料を何度読み返しても、精霊減少についての手懸かりは何もなかった。
ラルムは湖に視線を落とした。
水上に光る水の精霊が、五年前に帰郷したときより少なく感じる。
水面に映る星々の光は風で揺らめき、落ち着くとまた仄かな光を反射して湖に映り込む。何処へ行くことも出来ず、まるで湖に囚われているかのようだ。
湖に囚われた星は、どうすれば自由になるだろう。
精霊達のように、自由に世界を飛び回ることは出来ないのだろうか。
──その時、冷たい夜風がラルムの頬を撫でた。
ふと、シエルの顔が思い浮かぶ。
資料室でシエルは怒っていたが、夕食時はいつも通りだった。他の人の目があったからか。それとも、婚約の事はもう納得したということだろうか。
「シエルは……もう寝たかしら……」
ラルムは眼鏡を外しベッドに潜り込んだ。
胸の奥の疼きに苛立ちを感じつつ、ラルムは瞳を閉じて夢の中へ逃げ込むのだった。