第九十一話 湖上の星(宿屋にて)
バルコニーには椅子が二脚置いてあり、カシミルドとルミエルは各々腰かけることにした。夜のひんやりとした風が心地良く、カシミルドは体を伸ばし大きく息を吐くと椅子に腰を下ろした。
「うわぁっ」
「どうしましたのっ!?」
「あ、ごめん。この椅子、揺れるんだね。ビックリした……」
カシミルドは揺り椅子だと気付かずに座り驚いたのだ。
普通の椅子と違い背もたれも少し斜めになっていて、体を揺すると楽しい。先程驚いていた事など無かったことの様に、椅子に身を任せ星空を楽しんだ。
ルミエルはというと、椅子に寄りかかり空を見上げていた。
このまま放っておけば寝てしまうのではないかと言う程、呆けた表情をしている。ルミエルはカシミルドの視線に気付くと、小さく息を吐き微笑んだ。
黙っていれば美人なのに……カシミルドはそんな言葉が浮かんだ。
「あら……何も言わない方が、カシミルドは私の事をずぅ~と見ていてくださるのかしら?」
「あー……そうかも。ルミエルの声を聞くと、何か身構えちゃうんだよね……」
カシミルドは引きつった笑みを浮かべ、ルミエルは納得がいかず頬を膨らませた。
「カシミルドってやっぱりお子様ね」
「ルミエルの方が……いや。どっちもどっちか……。ルミエルはどうして、この視察団に付いてきたの?」
「……カシミルドがいるからよ。あなたと一緒にいたくて付いてきたの」
ルミエルの偽りのない真っ直ぐなその言葉に、カシミルドは戸惑いながらも、ある答えを導き出した。
「あ! ラルムさんと同じか!?」
「どういう意味ですの?」
「ルミエルは僕の事、何かの研究材料にしたいのかなって思って──ほら、僕って……」
カシミルドはそう言いかけ、胸の辺りを押さえた。
呪いの種子──命の大天使ヴァベルが、自身の魂に植え付けたという、人々を滅ぼすための呪い。天使がそんなことをするなんて思ってもいなかった。
ルミエルがおまじないで制御してくれたらしいが、彼女も天使に興味があるのだろうか。
「呪いの種子の事ですの?」
「うん。ルミエルも知ってたんだね。クロゥから聞いたの?」
「何故クロゥですの?」
ルミエルはクロゥと聞いて嫌そうな顔をした。
クロゥがルミエルを苦手な事は知っていたが、ルミエルもだとは意外だった。
他にルミエルとよく話す人というと……。
「じゃあ、テツさん?」
「……何故テツですの? 二人とも私の事を毛嫌いしていますわ」
「そうかな……?」
テツとルミエルは仲が良いかと思っていた。思い返してみると、ルミエルはレーゼと二人でいることが殆どだ。
「そんな事より、あれから体は如何ですの?」
「うーん。ルミエルのおまじないが効いてるみたいだよ。ありがとう」
「……そうですの。良かったですわ」
「それにしても、天使が呪いをかけるなんて、考えてもみなかったな……」
「それは……ヴァベル様はそんな天使ではないですわ……」
「えっ?」
「ああ……えっと、天使様がそんな事をするなんて、きっと事情があったのですわ……」
「……もしかしてルミエルも天使に憧れてたりする?」
「……憧れですの?」
「うん。僕、天使の出てくる絵本が小さい頃から大好きでさ、いつか本物の天使様に会ってみたいな。って思ってたんだ……」
カシミルドは空を見上げた。
あの空の何処かに、天使がいる世界に繋がる扉があるのだろうか。カシミルドのキラキラと輝く瞳を見ると、ルミエルも顔を綻ばせ一緒に空を見上げた。
「カシミルドは、天使が好きなの?」
「うん!……でも、ヴァベルの事を聞いて、イメージがちょっと変わったけどね……」
「嫌いに……なったの?」
「それはないよ。会ったこともないのに、嫌いになれないよ……でも、それを言ったら、会ったこともないのに好きだなんて、おかしいかな?」
「おかしくない。と、思いますの。でも、私は……知らない人を好きになったりはしませんけれどね。フフフっ」
「あ、笑った。酷いな~。……でもさ、所詮、本の中の天使は、僕が作った勝手な偶像ってことだよね」
「偶像……。私も、そうだったのかしら。……本当の彼を見ていないのは、私なのかしら?」
ルミエルはそう言うと遠い空の星を眺めた。
「ルミエル?」
「──私、好きな人がいましたの」
「いた? もう好きじゃないの?」
「……あの人は、もういないの。カシミルドと一緒にいたら、会えると思ったのに……」
「何で僕と……」
カシミルドは言いかけて口をつぐんだ。
ルミエルが泣いていたからだ。
ルミエルは慌てて涙を拭うと、無理やり笑顔を作る。
「はぁ。……眠くなってきましたの。杖、返しますわ。──おやすみなさい」
「……おやすみ。ルミエル」
ルミエルは杖をカシミルドに渡すと、一人、部屋へ戻って行った。
ルミエルは何故泣いていたのだろうか。
そして、誰に会いたいのだろうか。
そういえは、前にも泣いていたことがあったような……。
それがいつの事か思い出せず、カシミルドは杖へと視線を落とした。テツから借りた虹珊瑚の杖。
この杖を少し手放しただけで、言いようもない喪失感に襲われた。視察が終わればこれはテツに返すべきだろうが、手離せる自信がない。
カシミルドは立ち上がるとバルコニーの手すりに寄りかかった。
「あ……綺麗だな。星が、湖に落ちてきたみたいだ……」
カシミルドの視線の先にはエテの湖が広がっていた。空に瞬く星々を映し、風で水面が揺れる度にキラキラと輝いて見えた。揺り椅子に身を任せ空ばかり見ていたから、湖の美しさに全く気が付かなかった。
「カンナにも、見せてあげたかったな……明日、一緒に見られるといいな……」
カシミルドは杖を大事そうに握りしめると、部屋へと戻って行った。