第八十七話 シエルの兄
ヴァンは自室で報告書に目を通していた。
いつもなら膝の上に白いルナールを載せて仕事にあたっているのだが、今日は違う。部屋に人が居るからだ。
ルナールは篭に入り縮こまって震えていた。
「……で。何の用だ?」
「いや~。良かった良かった~」
部屋中をぐるぐると歩き回る大男、ラージュはニヤニヤしながら、何度も同じ台詞を繰り返していた。
「いつまでそうしているつもりだ? ラージュ」
「だってよぉ。可愛がったんだよ! 俺の婚約者が! 制服と眼鏡で隠されてはいたが、全部取っ払ったら完全に俺の好みだ!!」
ラージュは拳を高々と掲げ吼えた。ヴァンは頭を抱える。
うるさいし暑苦しいし、何よりルナールが怯えているからだ。
「良かったな。おめでとう。祝福するよ。……さあ、後はヴェルメイユにでも聞いてもらえ」
「何だよ~。ヴェルメイユはお前のことばっかで聞いてくれないんだよ……」
ラージュは肩を竦めてルナールの篭をつつき始めた。ヴァンはそれを不快そうに眺めると、扉がノックされた。
『兄様。シエルです……』
「ラージュ。弟が来た。席を外してもらえないか?」
「おう。分かった!」
「シエル。入りなさい」
「失礼します」
シエルが扉を開けると目の前にはラージュが立っていた。
今一番見たくない男の顔に、シエルはつい声を漏らした。
「……げっ」
「……? 今何か言ったか?」
「いえ。何も……」
「そうか。まぁ。俺は今機嫌が良いんだ。細かいことは気にしない」
シエルはラージュを怪訝そうに見上げた。
ラージュは余裕のある笑みを浮かべる。
「シエル。ラージュは婚約者にご執心だそうだ。放っておけ」
「まぁそういうことだ! 俺のラルムに会いに行ってくる。またな!」
ラージュはシエルの背中を平手で叩くと、廊下を颯爽と歩いていった。その背中をシエルが睨みつけているとも気づかずに。
「シエル? 部屋に入りなさい」
「はい」
シエルはゆっくりと扉を閉めた。
ヴァンは扉が閉まるのを確認すると、小さな篭から白い狐のような生き物を出し、胸に抱き上げる。
見たこともない真っ白な生き物に、シエルは目を奪われた。
「兄様。その生き物は何ですか?」
「シエルに紹介しようと思っていたんだ」
「紹介?」
「ああ。これは、ルナールの子どもだ」
「る、ルナール?」
白いルナールはヴァンに懐いている様だった。ヴァンの胸に顔を擦り当て、クゥクゥと小さく鳴いている。ラルムが好きそうだ。
「まあ。座れ。……このルナールは近くの村で売られていたそうなんだ。腕を怪我していてな。大分よくなったから、そろそろ仲間の元に帰してやりたい」
「それは……そいつを餌に、魔獣の棲みかを探すってことですか?」
ヴァンは一瞬驚いた顔をして、笑って首を横に振った。
「違うよ。シエル。ただ帰すだけだ。……色々調査をしたが、魔獣による被害なんて出ていないからな」
「でも。それで……納得するんですか?」
「……王都の御偉いさん方か? それとも他か?」
ヴァンはシエルを試すように、しかし何処か優しい眼差しを向けた。
兄なら聞いてくれる。そしてきっと、偽りなく答えてくれる。
シエルはそう感じ、口を開いた。
「……王都の地下で、魔獣を売買する闇オークションがありました。あれは、魔獣が襲ったのではなく、商品だった奴隷の少女が暴走したから崩壊したのです」
ヴァンはルナールを一撫でし、瞳を閉じた。
「……そうか。あの話は、邪魔なルナールを排除したい連中に利用されただけか……ならば、テツ様はどっちなのだろうな?」
「どっちと……言いますと?」
「自ら志願して視察団を形成したと聞く。テツ様はルナールを排除したい側の人間なのか。それを邪魔したい側の人間なのか。ということだ。──シエルはどう見る?」
「……」
シエルは解答に迷った。
テツは魔獣との関係を壊したくないと言っていた。
しかし、いつも何かを隠している。
蜥蜴のことも言及しないし、カシミルドやカンナ、レオナールとはよく話しているのに、自分には何も話してくれない。
「どうした? 何か気になることでも?」
「……よく、分からないんです。テツ様は、何故か剣の腕が凄くて……それに、魔法を無効化できる体質だそうなんです。でも、いつも何かを隠している様で……いい人だとは思うんですけど、俺の事は信用してないと思います」
シエルはテーブルに視線を落とし、寂しさと悔しさの入り交じった声で述べた。ヴァンはルナールを撫でつつ、また瞳を閉じた。
「……テツ様は食えないお人だ。誰にも心は開かないだろう。しかし、魔法を無効化か……それは本人から聞いたのか?」
「……はい」
「ならばシエルは信頼されているのだよ。俺もシエルのことは信頼している。しかし、後発隊は一般人も多いからな……ルナールの事は後発隊には知らせないでくれ。それから念のため、テツ様にも……」
「わかりました。兄様」
「──それから……フォンテーヌの娘とは仲が良いのか?」
「へっ? べ、別に……」
ヴァンはシエルの動揺する姿を見て、笑いを堪えた。
「隠さなくてもいいだろ? シエルがずっとあの娘の隣を独占していた事は知っている」
「ど、独占って……そんなつもりは……」
「明日の婚約発表……アジュール氏はとても楽しみにしていたな……」
ヴァンから顔を隠すようにシエルは俯いた。シエルがどんな顔をしているか、ヴァンには想像がついていた。
「そんな顔をするな。シエルがあの娘の隣を今後も独占したいなら……俺が手を貸すぞ?」
「えっ?」
「……そんなに嬉しいのか……」
「いや、別に……」
シエルは顔を赤くして俯いてしまった。
「メディ=アンヴァンには会ったか?」
「……研究室の?」
「ああ。そうだ。……メディは優秀な研究員であり、アジュール氏の甥、サージュの妻。そして、アジュール氏のお気に入りなんだ。それから──ソルシエール分家の令嬢でもあった。だから、アジュール氏はソルシエール家を贔屓にしている。しかも、娘の相手に名が上がったのが、本家の跡継ぎだからな……だが」
ヴァンはそこで言葉を切り、シエルを真っ直ぐ見つめ返した。
「……俺なら、ラージュより条件がいい……」
「へ?……兄様が?」
「ああ。俺は英雄という肩書きがあるからな……まぁ。明日の会を壊すことは好ましくない。──しかし。俺なら婚約を取り消すとこもできる。だが今は我慢していてくれ。いいな?」
「……はい。あ、ありがとう。兄様……」
「ああ。──そろそろ後発隊の半分が街に下るんじゃないか? シエルも挨拶してきなさい」
「は、はいっ」
シエルは立ち上がり深くお辞儀すると、部屋を出ていった。
扉が閉まると、ヴァンの胸でクゥンと小さくルナールが鳴いた。
「どうした?」
「……クゥ」
ルナールはヴァンの膝から飛び降りると、ベッドに転がりシーツの中に潜り込んだ。
そして淡い光を放ち、モゾモゾと体をくねらせながらシーツから顔を出した。三角のフサフサの耳をピンと立て、銀色の真っ直ぐな髪が無造作に顔に落ちる。
「何か話があるのか?──ミィシア?」
「……うん」
ミィシアは小さく頷くと、シーツを体に巻き付けヴァンの元へと歩み寄った。シエルが座っていたソファーを横目で見やり、顔をしかめる。
「どうした? シエルと話したかったか?」
「……ううん。人は……怖い。でも……」
ミィシアはヴァンの膝に腰掛け、背中に手を回しギュッとしがみついた。
安心する──人はとても怖い存在だと知ったばかりだったが、ヴァンにだけは心の拠り所であった。
さっきまでヴァンが話していたシエルという人間。
彼から微かだが懐かしい匂いがした。
ミィシアは里を思い出し、窓の外の夕陽のその先を見つめ、涙を浮かべた。その涙をヴァンは優しく指で拭う。
「どうした? 帰りたいのか?」
「うん……帰りたい。レオ兄に……会いたい」
ヴァンはミィシアの頭をゆっくりと撫でた。
「里まで、俺が送り届ける……里の場所は分かるのか?」
ミィシアは首を横に振った。
「……分からない。けど、とても怖い……怖いの……」
「こちらでも探している。無事に送り届けるから……泣くな……」
「うん……ありがとう。ヴァン……」
ミィシアは微笑み、ヴァンの胸にそっと顔を埋めるのだった。