第七十話 水の檻
「ぐっるぁぁぁぁ!!」
獣のような雄叫びに共鳴して、窓ガラスが音を立てて震えた。シエルは慌てて窓から外の様子を確認するが、外は白い霧が立ち込め何も見えなかった。
「何だ……今の。……そうだ。テツ様に……」
シエルはテツに風の防護魔法をかけようとして思い止まった。
テツは魔法拒絶体質だと言っていた。
恐らく試みるだけ無駄だろう。
「せめてあの餓鬼だけでも……」
シエルは窓に向かって杖を構えた。
レオナールの事は見えないが気配は感じる。
「風の精霊よ……」
◇◇◇◇
「「レオナール!」」
魔力が飛散した突風に煽られながら、テツとシレーヌが同時に叫んだ。水の檻をレオナールが破壊した際に発生した魔力の奔流に、二人は視界を奪われていた。
そして視界が開けた時には、飛び出していったレオナールがミシェルまで後数センチというところであった。
しかしレオナールは、隣にいた大男の拳で腹を殴られ、派手に弾き飛ばされ、庭の大木に体を強く打ち付けられていた。
大木の下で踞るレオナールにゆっくりとミシェルが歩み寄る。その後ろに二人の男も続いていた。
「シレーヌ。目眩ましを頼む」
「はいっ!」
シレーヌは上空に舞い上がると呪文を唱えた。
辺りが白い霧で包まれる。
霧に紛れ、テツはレオナールの所まで駆けた。
もちろん蜥蜴の三人が、それに気づかない筈がない。纏まりつく白い霧に顔をしかめながら、オウグはミシェルを肩に担ぎ上げた。
「ミシェル行くぞ」
「えっ! オウグもやる気満々なんだと思ったのに。ディーンだって……」
「人間は駄目だ。引くぞ……」
「なっ……」
ミシェルが顔を上げると、既にレオナールの前にはテツが立っていた。
この人は、宿の空き部屋を貸してくれた殺気まみれの優しいお兄さん……確か王子様だとか。
だからダメなのか。王子だから。私達とは違う。
同じ人間だけど、生まれた瞬間から人の上に立つ存在。
屑人間の私達と、目が合うことすら、有り得ない存在。
また、殺気まみれの瞳で王子はミシェル達を見据えていた。
そんなに嫌いなのかな……私達のこと。
「つまんないの……」
テツはその場を立ち去ろうとする蜥蜴の三人へ、威嚇するように剣を抜いた。テツの剣が触れた先だけ、霧が散っていく。その淡く光を帯びた剣身に、ミシェルは口角を上げ、身震いした。
「きゃは……やっちゃったね。お兄さん……」
テツは嘲笑うミシェルに眉を潜め、冷たく睨み付けると口を開いた。
「ルナールの少女を何処へやった? それさえ答えたら今日は見逃す……」
ミシェルを支えるオウグの手に力がこもる。そして厳しい顔つきで隣のディーンに目をやり、その顔はみるみる青くなっていった。ディーンが背中の二本の刀剣に、手をかけていたのだ。
「おいっ。ディーン……まさかお前っ」
「あらら~やっぱり。スイッチ入っちゃったね~」
ディーンは長さ四十センチ程の、湾曲した片刃の刀剣を両手に一本ずつ持ち、体の前でそれを交差させ、剣越しに標的であるテツを見据えていた。
剣を向けられ、昂る気持ちを抑えられなかった。全身から溢れる殺戮衝動に胸の高鳴りを感じ、高揚していた。
「オウグ? ミシェル達はどうしよっか? レオナール君のこと回収してもいい?」
「……まあ。お前は好きにしろ。俺は見物してるわ。ディーンが殺りそうになったら……止めてやるよ」
「きゃはっ。やった~! 馬鹿なお兄さん。ディーンに剣を向けるなんてさ」
ミシェルはオウグから飛び降り、テツとディーンから距離をとった。巻き込まれるのは御免だからだ。
オウグも同じように後ずさった。
そしてディーンに忠告する。
「ディーン。殺るなよ?」
「ああ。善処する……」
そう呟くとディーンは腰を低くし大地を蹴った。
テツもその殺気に反応し、身構える。
「シレーヌ! サポートっ頼むっ」
テツは指示を出しながら、向かって来るディーンに剣を向けた。二本の刀剣をクロスさせたまま突っ込んできたディーンの初撃を薙ぎ払い、仰け反ったディーンの足を狙うも斜め後方に避けられ、ただ白い霧を切る。きぃんと言う金属音が霧の中に響き、その音に紛れる様に、シレーヌは見物している二人に向けて呪文を唱えた。
「水の檻よ――」
ディーンの行動に気が気ではなかったオウグは、シレーヌの声に気づくことなく、檻に呆気なく囚われた。
「うおっ。誰だっ?」
「わぁ。ミシェルも捕まっちゃったよ~。水の魔法……誰かな~? ──風の精霊よ。我が名はミシェル。姓はない。我が魔力を風に乗せ、見えない敵を我に示せ──」
ミシェルは檻の中で呪文を唱えると、瞳を輝かせて斜め上空を指差した。
「オウグ。あそこに何かいるよ! たぶん魔獣!!」
「ああ? あれは……何だ?」
白い霧の中に、小さな瑠璃色の人魚が浮かび上がっていた。
シレーヌは肌に触れた冷たいミシェルの風を、煩わしそうに手で振り払うと、檻に閉じ込められた二人を見下ろして呟いた。
「御主人様。好きなだけ魔力を使わせて頂きますわ──我が檻よ。囚われし者の魔力を吸い上げ糧とせよ──」
ミシェルとオウグは檻の中で魔力を吸い上げられ、地面にへたり込んだ。シレーヌはそれを見やると、霧の向こうのテツへと視線を巡らせた。よく見えないが、剣が擦れ、弾かれ合う音が幾度となく響いている。
「テツ。今、助太刀しますわ……」
◇◇
「いってぇ……」
レオナールは大木の根元で目を覚ました。頭がひどく痛むが動ける。あの大男に殴り飛ばされた割には外傷は少なかった。周りを見渡すと、白い霧で視界が閉ざされていた。
「何だ……これ。ミシェルは……ひぃっ」
その時、レオナールのすぐ横を剣先が掠れ、頬が薄く裂けた。湾曲した二本の剣を交互に振りかざし、蜥蜴の一人の男がテツと剣を交えていた。
その両者の気迫にレオナールは身を引いた。テツが双剣の連撃を受け止め弾き返しながら、蜥蜴の男を押している。
「レオナールっ。起きたならば妹の事を聞いてこいっ」
テツは会話をする余裕があるらしい。軽めの連撃を休むまもなく繰り出す双剣に対し、怯むことなく、重めの連撃を返し、どうみてもテツが優勢だった。
蜥蜴の一人はその様子に焦るどころか楽しんでいる様子だ。
薄ら笑いを浮かべ瞳は悦びに満ちている。イカれている。
「わっ……分かったっ」
レオナールは何とかテツに返事をすると、這うようにして二人から離れた。霧の間を縫って進み、ミシェルとオウグが囚われた檻の前に運良く出た。
ミシェルは座り込み、力なく顔を伏せている。先程四肢を肥大化させたばかりの為、まだ身体強化は出来ないが、弱ったミシェル相手なら、今の自分でも渡り合える。
レオナールはそっと檻の中に手を伸ばすと、ミシェルの髪からミィシアのリボンを取り返し、そして叫んだ。
「ミシェルっ。ミィシアを何処にやった!! 答えろっ!」
リボンを失いミシェルの髪はハラリとその細い肩に降り落ちた。ミシェルはゆっくり顔を上げてレオナールを見つめた。
その瞳は歓びの光に満ち、口元は卑しい微笑みを浮かべている。檻に囚われ力を失っていると油断していたレオナールだが、その顔を見て危険を感じ、後ろへ飛び退き距離を取った。
「レオナール君。そんな怯えないでよ。ミィちゃんの事、教えて上げてもいいよ? その前に……この檻を作ったお魚さんの事、教えてよ」
「なっ……」
「だめ? ミシェル。あれ、欲しいなぁ。あの綺麗な鱗……回収したいよ。オウグ、まだぁ?」
「おう。もう行けるぜ」
「やったぁ。今日はレオナール君のこと、オウグに貸してあげるね。私は……お魚さん」
朗らかに笑顔を向けるミシェルに、レオナールは寒気を感じた。
そして後ろに控えるオウグは、地面に両手を付き怠そうにしているのかと思いきや、瞳には爛々と橙の光を宿し、檻の下に大きな魔方陣を顕現させる所だった。
レオナールは体を思うように動かせなかった。
ミィシアを連れ去られた時と同じ。
敵の圧力に飲まれていた。
ミシェルの今日の獲物はシレーヌのようだ。
嫌だ。もう俺の前で、あいつに誰も奪われたくない。
レオナールが手に力を込めようとした時、オウグから呪文が放たれた。
「ミシェル、俺の背中に乗れ──地の精霊よ。我が名はオウグ=オーデュ。止めどなき大地の力を、我の拳を用いて顕現せよ。畝り貫けっ──」
地下深くから何かか押し上がってくる様な気配を察知した瞬間──地面が隆起し幾本の固く太い木の根が大地を蹂躙した。
その根は水の檻を掻き破り、大地から溢れた数多の根はレオナールにも襲い掛かり四肢を貫いた。
「うがっ……つぅ……」
目を見開き、熱さを感じる右大腿部に手を伸ばそうとするも、その手も貫かれ動かすことは出来なかった。
血の気がどんどんと引いていく。
少しでも体を動かそうとすると、身体中に激痛が走った。
太い根に貫かれ、僅かにもがくレオナールを見て、オウグは鼻をならして嗤った。
「動くと死ぬぜ?」
「ミシェルはお魚さんの所に行くね! レオナール君、また後でね……」