第十話 再会
カシミルドはようやく崖の中腹まで登り進めた。
立って登るには厳しく、両手でごつごつとした岩肌を滑らないか確認しつつ這うようにして一歩一歩登る。
登りながら、叔母夫婦の事を考えていた。
六歳の頃から会っていないが、カシミルドだとわかるだろうか……。
それに叔母夫婦には娘が一人いる。
カシミルドと同い年で従妹でもあり幼馴染でもあり、唯一の人間の友だちでもある。
彼女にも会えるだろうか。
一目見て、彼女だとわかるだろうか。
考えるだけで自然と口元が緩む。
「うわっ」
口元だけでなく手元も緩んでいたようだ。
汗で手が滑り体勢を崩しかけるが何とか持ち直した。
すると、心配そうにメイ子が上から降りてきた。
「カチィたま。メイ子も魔獣界に戻るなのの。メイ子がいると、カチィたまの魔力をメイ子がずぅーっと吸い続けてしまうなの。だから余計に疲れると思うなのの」
メイ子は自分のせいでカシミルドに負担を掛けていると思ったのだ。
申し訳なさそうにカシミルドに言った。
「大丈夫だよ。それにメイ子はなるべく僕の傍にいてよ。魔獣を最低でも一人、召喚し続けておくっていうのも、姉さんとの約束の一つだから。――メイ子はいいな。空を飛べて、崖もスイスイだな」
カシミルドの言葉を受け、メイ子は自慢気に空中をくるくる飛んで見せた。
クロゥはその様子を見て、
「おっカシミルドも、この俺様みたいに羽でも生やせば飛べるんじゃねぇの? やってみるか?」
と妙に興奮ぎみにカシミルドを誘うが、そんな話に乗るわけがない。
カシミルドは変身なんて芸当はできない、無理である。
「ふん。僕は姉さんみたいに箒で空飛びたい」
クロゥはつまらなそうにカシミルドを見て、
「このシスコンがぁっ」
と捨て台詞を吐いて崖の上に飛び去っていった。
崖も後少しで登りきる。
そんなに長い距離でも無かったが、朝も早かったことと夢見が悪かったせいか、想定していたより疲労を感じる。
「カチィたま。もうすぐ崖の上なのの。――お疲れ様なのの!」
メイ子が最後の声援を送ると同時にカシミルドは崖を登りきった。
崖の上は開けた場所となっており花畑が広がる。
その真ん中に巨木が佇み、悠々と丘から海を眺めていた。
二本の大木が捻り絡み合い一本の巨木となったその木には葉が生い茂り、昼寝をするのに丁度良さそうだ。
昼寝と言うにはまだ早すぎるが。
そして花畑の奥には森が広がり、その間から崖に向かい川が流れている。
この川の向こうが第四王区のはずだ。
カシミルドは額の汗をぬぐい川の向こうを眺めた。
「ちょっと休憩しようぜ」
頭上からクロゥの有難い申し出が飛んできた。
クロゥの癖に気が利くではないか。
花畑を横切りカシミルドは大きな木の下で休憩することにした。
寝転ぶと草の匂いがする。
木漏れ日は優しく暖かい。
「あー。気持ちいい」
カシミルドは身体をぐーっと伸ばす。
そしてそのまますぐに眠りこけた。
イリュジオン城は大陸の西の端に位置する円錐形の山の頂上に建つ。そして山肌に張り付くようにして城下の街が山の裾野まで広がっている。
城の周りは山の湧水を貯めた堀で囲まれ、そこから二本の川が城の北側と南側の海へと流れている。
水に恵まれた土地である。
城下の街は四つの王区に分けられ、城から一番近い区域は名家や王族の外戚が暮らす第一王区。
白く高い塀で囲まれ二区からその様子を伺うことすら出来ない様になっている。
その下が工場や研究所が建ち並ぶ第二王区。
ここも簡単には入れないように、三区との間に高い塀があり、二区で働く者しか通れないようになっている。
そしてさらに下ると港のある第三王区だ。
ここはイリュジオン城下の街の玄関のような区域で、様々な商店が軒を連ねる。
二区で働く者が暮らしていたり、遠くの村や街から出稼ぎに来た者がいたり、人の出入りも多い区域だ。
第三王区は山頂から流れている北と南の川に挟まれた西側の地域だけを指し、川を渡った東側は農業が盛んな第四王区になる。
城下の第三、第四王区に入ることは容易ではあるがその先の王区はもちろん、山頂の城へ行くことは困難な為、うっすらと山頂に聳える城を幻の城と呼ぶ者も多い。
第三王区南東側に位置する宿屋「ビスキュイ」の朝は今日も早い。
第四王区との境界ともなっている川の近くにあるこの宿は、四区よりさらに東からやって来た旅人を迎えるのにうってつけの立地だ。
木で作られた暖かみのある宿は一階が食堂となっており、三区の住民からも親しまれている。
栗色の長い髪の少女が、頭の天辺に赤いリボンで髪をギュッと束ねながら軽快な足取りで宿屋の階段をかけ降りる。
その足音に反応して、一階の厨房から宿屋の女主人こと、ポム=ビスキュイの声が景気よく響く。
「おはよう。カンナちゃん」
「おはようございます。ポムおばさん。――おじさんもおはようございます」
カンナと呼ばれた少女は笑顔で朝食の支度をするポムおばさんに挨拶を返し、庭で薪割りに精を出している宿屋の主人、ヴァニーユ=ビスキュイにも裏口からひょっこりと顔を出し元気よく挨拶した。
宿屋の主人はそれに笑顔で答えた。
「カンナちゃーん」
厨房からポムおばさんの声が上がる。
世話しなく鍋を振りながら申し訳なさそうにカンナを呼んだ。
「はーい」
カンナはエプロンを着けようとした手を止め、厨房のポムおばさんの方へと急ぐ。
おばさんの声の調子から、何か頼み事だとすぐに察した。
「朝から悪いんだけどさ。昨日風が強かったでしょ? ウチの看板、布だから飛ばされちゃったのよ。川の方で木に引っ掛かっているのを見たお客さんがいてね。ちょっと探してきてくれないかい?」
「任せて。おばさん。私、木登り得意だから!」
カンナは快く引き受けた。
その様子にポムおばさんもほっとし、喜ぶ。
「いつも助かるわ。気を付けとくれよー」
「はーい。いってきます」
ポムおばさんに軽く手を降り、カンナは川へ向かって走り出した。
カンナ=ファタリテ、十四歳。
栗色の長い髪をなびかせながら颯爽と走る。
カンナは宿屋ビスキュイに居候させてもらい、もう五年程経つ。
運動は得意な方で、川へ向かう丘の小道を一気にかけ上がっていく。
子どもの頃からよく木登りもしていた。
気が付くと木の上で寝ていたこともあるぐらいだ。
勢いよく走り風が頬を打つ。カンナは昨日の風を思い出した。
まるで生きているかのように町中に吹き荒れた風。
きっと何か素敵なものを運んできてくれたのではないかと内心ワクワクしていた。
昨日の風はどこか優しく懐かしい故郷の薫りがしたから。
小道に咲く色とりどりの小さな花には目もくれず、カンナは目的の川の近くまであっという間にたどり着いた。
丘の上の花畑、海がよく見えその先にうっすらと自分の故郷の山が見える、カンナのお気に入りの場所まで来た。
その中央に佇む一番大きな木の上に、ヒラヒラと靡く布が見えた。
宿屋ビスキュイの文字が赤と黄色で派手に描かれた布、目的の看板が引っ掛かっていた。
「あっ。あった。結構高いなぁ――」
十メートル程の高さの枝に看板を見つけ、カンナは愉しげに独り言を言った。
木登りは久しぶりだ。
得意だと自負していただけのことはあって木に手を掛けると、軽やかに看板がある枝の所まですぐに到達した。
看板は枝先に引っ掛かり、手を伸ばすが届きそうもない。
枝を揺り動かそうとするが、思ったより枝が太く上手く揺らせない。
しかし自分が乗ったら折れてしまいそうな太さである。
もう少し枝先を揺らせたらと、足場にしていた枝に目をやると――カンナの目線が下へ行く。
「ん? 誰か寝ている?」
枝と葉の隙間から木陰で寝ている誰かの足が見えた。
顔は見えないが朝から木の下で寝ているなんて――と考えていると、子どもの頃を思い出した。
隣の家に住むカンナの幼馴染。
同い年だけどカンナより少し小さくて、ちょっとどんくさい。
いつも木の下で絵本ばっかり見ていて、いつもカンナの後をニコニコと追いかけてきた。
あの子もよく木の下で寝ていた。
自分があんなことをしなければ、今も隣で一緒に笑っていられたかもしれない……今まで出会った中で一番大切な人――その時強い風がザザッと通りすぎ一瞬だけ顔が見えた。黒髪の少年の顔が……。
「えっ。嘘……」
カンナの心臓がドクドクと脈打つ。
葉で隠れてもう少年の顔は見えないが……。
カンナは看板の事などすっかり忘れ、体を左右に動かしながらもう一度少年の顔が見えないかと試行錯誤する。
「うーん。見えないな……」
彼のことを考えていたからそう見えてしまっただけかもしれない。
しかし黒髪ははっきりと見えた。
髪色が黒の人間など、この大陸に来てから会ったことがない。
気持ちだけがどんどん焦り――自分が何処にいるのか、すっかり忘れていた。
カンナは背後から木がへし折れるような嫌な音を聞き、さっと振り返る。
足場にしていた枝が幹から剥がれ落ちようとしている瞬間を目にした。
いつの間にか幹から大分離れた枝の先にいた。
急いで幹まで戻ろうと掴んでいた枝を両手で握りしめ、先程まで足場だった枝を蹴り、弾みを付けて飛ぼうとしたが後数センチのところで届かない。
「きゃっ」
掴んでいた枝は大きく揺れ、ビスキュイの文字がヒラリと宙を舞うのが見えた。
カンナは周りの小枝をパキパキと折りながら真っ逆さまに下へと落ちていく。
「いやぁぁぁ」
緑色に包まれた世界から解放され、黒髪の少年が視界に飛び込んできた。
彼は丁度カンナの落下予定地に気持ち良さそうに眠っていた。
このままだと彼の上に落ちてしまう。
駄目――そう思った瞬間、カンナと少年は目が合った。
黒髪の少年はその大きな瞳で朧気にカンナを見つめた。
カンナは一目みてわかった……カシィ君だ。
自分より小さかった彼が、こんなに大きくなって目の前にいる。
瞳が熱い、顔が火照る、心臓が爆発しそうだ。
何故だろう……時間が止まってしまったかのように、全く動かない。
枝も葉も空もそして自分さえも呼吸することすら忘れてしまったようだ。
少年がカンナに向かって手を伸ばした。
カンナは自分も彼に触れたいと思ったが、体が自由に動かない。
差し伸べてくれた彼の手を取りたい――そう思った時、
「ぐはっ。つぅっ」
カンナは少年の上にドサッと落ちた。
「ごっごめんなさい」
カンナは慌てて少年の横に身体を下ろす。
少年はゲホゲホとむせ返しながらお腹を押さえて踞る。
カンナは少年の背中を擦ってあげようか戸惑っていると、また少年と目が合った。少年は涙目だ。
そして何か呟いた。
「――使か」
カンナにはよく聞き取れなかったが、改めて少年の顔を見て思う。
「もしかして。カシィ君?」
久しぶりに名前を呼んだ。
子どもの頃と同じ様に……こんなところで会えるなんて、とても不思議な気持ちだ。
「えっ?」
少年はカンナを見て呆然としている。
「ごっごめんなさい。えっと、わ、私」
カンナは覚えていたのは自分だけかと思うと、恥ずかしくなり顔を紅くして俯いた。
八年ぶりだから仕方がない、それに自分の事など忘れられていて当然かもしれない。
でも……もう一度少年と向き合い彼の手をギュッと握りしめた。
「あっ。っと」
少年は驚いて顔を赤くする。
カンナはやはりカシィ君だと確信する。
名前を告げれば思い出してくれるだろうと、口を開きかけた時……。
「カンナ。だよね?」
カシミルドの方から名前を呼んでくれた。
昔と同じ様に。
カンナは胸の辺りがキュッと締め付けられ、熱くなるのを感じた。
そして満面の笑みで答える。
「うん! 久しぶりだね。カシィ君」
カンナとカシミルドは八年ぶりに再会した。




