第六十二話 視察団先発隊
ここは、蒼き湖の街エテ。巨大な湖の上に作られた街。
数百年前、火山の大噴火により、湖の横に栄えていた町、旧エテは溶岩で埋まり、湖の中央に建てられていたフォンテーヌの屋敷を中心に、長い時をかけて今の形へと成長を遂げた街だ。
湖の底に家々の土台となる木の杭が埋め込まれており、その上に煉瓦の家が建てられている。
建物の間には移動手段として橋が架けられているところもあるが、その殆どはあまり使われず、小舟での移動となる。
そして街の中心部、フォンテーヌの屋敷には、研究施設が併設されており、一際大きなその建物は屋敷と言うより城を思わせるほどだ。
その荘厳な雰囲気を醸す屋敷では東方視察団先発隊の面々が滞在していた。先発隊は、フォンテーヌの屋敷を拠点とし、街の周辺の森を調査している。
魔獣の隠れ里を探しているのだ。
指揮官であるヴァン、ラージュ、ヴェルメイユ、エルブの四人は、それぞれ数名の教団員を引き連れ、四方に分かれて調査していた。
ヴァン=ミストラルは宛がわれた客室にて、三人の指揮官が提出した調査結果に目を通していた。
この辺りで、ここ数年、いやここ数百年、魔獣による被害はない。今回槍玉に挙げられているルナール種の事を、ソルシエール家当主は好戦的な種族だと揶揄していたが、その種による街や村への被害は皆無だ。
では、ルナールは何を持ってして好戦的と言われるのか。
その答えをヴァンは知っていた。
魔獣狩りを生業としている裏の人間達との戦いのせいなのだと。魔獣を狩り、その毛皮を嗜み愛でる人間がいるからなのだ。
それを権力の象徴と思う人間を、ヴァンは何人も目にして来た。しかしヴァンは、そんな人間の為に剣を……そして杖を握るつもりなど更々無かった。
「馬鹿馬鹿しい……」
ヴァンは殆ど真っ白な報告書を、机に放り投げ椅子から立ち上がると、テラスへと繋がる大窓から外を眺めた。
夕陽が遠くの火山から立ち上る白煙と混ざり、やんわりと湖にその赤を落とし映し出す。
美しいエテの黄昏時だ。
その美しい光景を前に、ヴァンはふと弟の顔を思い出す。
弟にも、この光景を見せてやりたいと思ったのだ。
「もうすぐ、シエルも来るのか……」
口に出すとそれは現実味を帯び、ヴァンは無意識の内に口元に笑みを浮かべていた。
この遠征でのヴァンの楽しみは、シエルと外の世界で会えることだった。八歳も年の離れた弟は、昔から自分の後を追う……もはや目に入れても痛くない息子の様な存在だった。
この歳で結婚すらしていないのは、女性といるとシエルが不機嫌そうな、そして寂しそうな顔をしていたからかもしれない。女嫌いな弟がいる家に、女性を招くことも気が引けた。
だが、シエルも教団に入った事だし、そろそろ自分も身を固めなくてはならない。
いつの間にかシエルの事から自分の嫁問題に思考が移り、ヴァンは自分に呆れ、椅子に腰を下ろすと深い溜め息をついた。
その時、扉が豪快にノックされた。この叩き方は、ラージュ=ソルシエールに間違いない。
ヴァンの返事を待たずに、扉は勢いよく放たれ、予想通りラージュが部屋に入っていた。手には大きな籠を持っている。
布が被されていて中は見えないが、ヴァンはその気配に眼帯で覆った右目が疼くのを感じ、椅子から立ち上がった。
「ラージュ。それは……」
ラージュは大きな体躯を仰け反らせ、息を吸い込むと自信たっぷりにその籠を掲げた。
「ヴァン! もう、白紙の報告書とはオサラバだぜ! はっはっはっ」
ラージュは扉を乱暴に閉めて高らかに笑った。
彼ソルシエール家の次期当主。そのせいもあってか、年下のくせに態度も体も大きく、ヴァンのことを呼び捨てにしている。
暑苦しいので、ヴァンは窓を全開にしようと手を伸ばすが、ラージュはそれを制止した。
「あー。待て待て。内緒話だ」
「……?」
「これを見てくれ!」
ラージュは意気揚々と手に持った籠に被せてあった布を剥ぎ取った。籠の中には白銀の毛皮が入っている。
しかしそれはよく見ると小刻みに震えているように見えた。
「毛皮……?」
「これはだな。今、俺たちが探しているルナールの餓鬼だ!」
「るっルナール!?」
目を丸くして驚くヴァンに、ラージュは御満悦だ。
「はっはっはっ。凄いだろ? こいつを拷問すれば里の場所も吐くかもしれないだろ? それか、こいつをエサに魔獣共を誘きだすとかな! どうよっ?」
「……何処で手にいれた?」
「エテから南の観光地だ。ああいう所は人が集まるからな。闇市って奴がやっててな。そこで買ってきた!」
「ラージュ? 買ったのか?」
「ああ。って取り締まった方が良かったか?」
「……いや。小隊で突っ込むのは得策ではないな」
「だろ? 因みに代金は隊の資金から出してもらえるよな? 俺、有り金全部叩いちまったよ」
そう言うとラージュは肩を落とし、白銀のルナールを恨めしそうに睨み付けた。
「絶対に吐かせてやるからなぁ~。覚悟しとけよルナールの餓鬼め」
ラージュが声を上げる度に、籠の中のルナールは体を縮こませ、ビクビクと怯え震えている。
この小さな生き物にラージュは拷問をしようとしている様だ。親元から拐われて売られて、さらに拷問など、何と憐れな。
「ラージュ。その獣。俺が預かろう」
「えっ? 俺の有り金全部を?」
「金なら支給する。ラージュに獣の世話が出来るとは思えない。まだ俺の方が良いだろう」
ラージュは篭をガシャガシャと振り、中の魔獣をひっくり返させ、その顔を自分に無理矢理向かせた。瞳をギュッと瞑り、魔獣はガタガタと震えている。
「確かにな。俺が助けてやったのに……顔も見せねー」
さっきまで拷問とか言ってたくせに、ラージュはこの魔獣を助けたつもりだった様だ。
ラージュは机の上に籠をガシャンと乱暴に置いた。距離感というものがラージュにはないのか、彼の動作はいつも粗雑だ。
「よし! この餓鬼はヴァンに任せるわ。世話とか面倒だしな。ーーそういや、ヴァンの弟はまだ着かないのか?」
「そうだな。昨日着くはずだったが、少し遅れているそうだ」
「おぅ。そうか。でだな……。フォンテーヌのお嬢さんも来るんだろ? アジュール氏が早く紹介したいって煩くてな。後発隊が来たら夜会を開くってはしゃいでんだぜ」
「そうか……」
ヴァンはシエルの友であるフォンテーヌの少女を思い浮かべた。最近会っていないが、アジュール=フォンテーヌの娘と聞いている。
娘を紹介したいとは、それほど自慢の娘だからか……それとも他に意図でもあるのだろうか。
しかしそろそろ後発隊が来るのか。
「ラージュ。この魔獣のことは、誰が知っている?」
「ん? 俺とヴェルメイユだけだ。ヴェルメイユが温泉に入りたいって煩くてな。その時に偶然、闇市を知ったんだ」
「では、この事は内密に。テランには私から伝えておく。後発隊には言うな。勿論、それ以外の者にも」
「おう! 手柄横取りされんのは癪だからな! よし。じゃあ、あとは任すからな」
「ああ。ご苦労様」
ラージュは白い歯をキラッと光らせ嵐のように去っていった。ラージュは口は軽いが、魔獣のことは口外しないだろう。
後発隊まで魔獣関連の陰謀に巻き込みたくない。
ヴァンは右目の眼帯を押さえた。目のずっと奥の方が疼く。
ヴァンの右目には魔獣の呪いがかけられている。
八年前英雄と称された魔獣との戦いの中、セルパン種の魔獣から受けたものだ。
あの時の戦いは仕方の無いものだったが、今回は違う。
部屋に残されたのはヴァンと白銀の魔獣。
ヴァンは籠についた小さな扉を開けた。
「おいで……」
優しく手を伸ばすも、魔獣は怯えてヴァンに顔すら向けずにいる。
「俺はヴァン=ミストラル。君を逃がしてやろう。さあ。ここから出よう」
「……」
魔獣は体を震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。大きな三角の耳がフワリと起き上がり、薄紫色の宝石の様にキラキラとした瞳は小さく瞬いた。
ヴァンはゆっくりと魔獣を掌で包むようにして抱き上げ、胸に抱いた。体は強張り震えているが、艶のある美しい白銀の柔らかな毛を撫でると、少しずつその震えが収まるのを感じた。
よく見ると右腕に包帯が巻かれている。
「怪我をしているのか? 可哀想に。怖い思いをしたのだな。俺が守ってやるからな……安心して……おやすみ……」
「……クゥ……」
「……?」
白銀の魔獣は鼻を鳴らし、ヴァンの胸に甘えるように擦り付けてきた。
そして消え入りそうな鳴き声を上げ、涙を流す。
ヴァンは魔獣が寝付くまで、優しく撫で続けた。
そして小さな寝息を確認すると、自分のベッドに魔獣を寝かせてやった。
「ルナール。まさか出会ってしまうとは……。このまま人と魔獣が交わることなく視察を終えられる事を願っていたのにな……」
ヴァンはそう呟くと眠る魔獣の隣に横になった。
隣で小さな息遣いが聞こえる。
それはとても懐かしく感じる。
隣に誰か寝ているなんて、昔弟を寝かしつけついた時以来だ。あの頃はまだ、父様がいて……。
ヴァンは昔を懐かしむと、夜の闇が訪れたばかりの時刻にも関わらず、そのままベッドで眠りについた。