第六十一話 スピラルのトラウマ
騒ぎが起こる数分前、シエルはスピラルに手を差しのべていた。
スピラルを馬に乗せるためだ。
するとスピラルはそれを嫌そうに掴み、シエルの馬に緊張した様子で乗りこんだ。
「じゃあ、出発するぞ」
スピラルは何も言わず、小さく頷いた。ジッと縮こまり、前だけ見据えている。
落ちたら危ないので、シエルはスピラルに体を寄せようとしたが、それに気付いたスピラルは、シエルを避けるように少しだけ体を前にずらした。
気のせいかとも思ったシエルが、もう一度体を寄せよるも、また避けられた。確か八歳と聞いたが、女の子だからだろうか。
「おい。前に行き過ぎると危ないぞ。それとも後ろにするか?」
スピラルは首を横に振ると、後ろに下がり、シエルに背中を預けた。しかし、体が小刻みに震えている。
「だ、大丈夫か?」
シエルが心配してスピラルの肩に触れると、スピラルは体を強ばらせてシエルの手を弾いた。
「へっ?」
「うっ……」
そして口元を手で押さえると、馬から飛び降り、道の脇の草むらで嗚咽を繰り返した。アヴリルがポシェットから飛び出し、心配そうにスピラルの頭上を舞う。
「おっおい。大丈夫かっ」
「スピラルちゃん!」
シエルが動くよりも早く、カンナが馬を飛び降りスピラルへと駆けつけた。カンナはスピラルの背中を擦り、シエルに視線を向けた。
「あのっ。スピラルちゃん。どうしたんですか?」
「分かんないけど……急に……」
まだ馬も数歩しか進んでいない。シエルにはスピラルの異変の理由が見当もつかなかった。ラルムも馬を近くの木にくくりつけ、スピラルの元へ駆けてきた。
「大丈夫? 具合悪いの?」
スピラルは小さく首を横に振った。全身が小刻みに震え、顔色は真っ青だ。
「シエル?」
「だから分かんねーってばっ」
不信感を顕にしたラルムの声に、シエルは大きく首を振り自分は無実だと主張した。
「スピラル。シエルと何かあった?」
スピラルは大きく首を横に振ると、ラルムの制服の裾をギュッと掴んだ。吐き気と震えは収まったようだが、瞳は充血しラルムに助けを求めるような視線を向ける。
「私の馬に乗る?」
スピラルはラルムの申し出に何度も頷いた。
カンナもそれが良いだろうと頷く。
「シエル。スピラルは具合が悪いみたいだから、乗り慣れた私の馬で行くわね」
「分かった……」
「もう。どうしてシエルの馬に乗ると、皆体調崩すのかしらっ」
「おっ俺のせいかよ!?」
「ち……違うっ」
スピラルはラルムの服を引っ張り、シエルを庇うように否定し続けた。
テツもその様子を心配そうに見ていたが、大事はなさそうなので皆に任すことにした。そしてスピラルはラルムと、カンナはシエルの馬に乗ることとなった。
「お前は……体調崩すなよ……」
シエルは後ろに乗ったカンナに呟いた。もしかしたら自分のせいなのかもしれないと、不安になっていたのだ。
「心配いりません! 私、丈夫なので!」
そんなシエルの心配を余所に、カンナは力強く言い切った。
◇◇
スピラルは自分の体の異変に驚いていた。まさか自分があんなに男というものに拒絶反応を示すとは思っていなかった。
見た目はまだ少年っぽさの残るシエルだが、その手は大きく固く、男性の手だった。背中に伝わるシエルの体温と、貴族らしい上から来るプレッシャー。
少し触れただけで、屋敷の旦那様と重ねてしまった。
スピラルは思い出しただけで、また身震いした。
「スピラル? 平気? シエルが何か嫌なこと言った? 悪気はないのよ?」
「ううん。本当に違うから……」
男の癖に男が苦手だなんて、情けなくて言えない。
でも、ラルムに包まれていると安心するのは事実だ。
ラルムはスピラルの手に自分の手を添えた。
とても、暖かくてホッとする。今なら、女性用の制服を着ている自分だけれど、男だと言える気がしてきた。
「スピラル……リリィさんの家でオンディーヌが現れた時、庇ってくれたよね……嬉しかった。だからね。困った時は頼ってね。私の事、姉だと思っていいんだから。私……弟がいてね。でも本当は、妹も欲しかったから!」
「…………」
スピラルは、ラルムの最後の一言に肩を竦めた。
うん。今じゃないな。
「あ、良かった。顔色良くなったね。スピラル」
ラルムがニッコリと微笑んだ。胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。騙していることは申し訳ないが、もう少しこのままでいいかと。スピラルは心の中で呟いた。
◇◇◇◇
その後は順調に馬を進め、夕暮れ前にガラザ村に到着した。活火山の近くの小さな村ではあるが、エテへ向かう人々の休息地として栄えている。
酒場も商店も宿屋も何軒もあり、町と言ってもよさそうな規模だ。カシミルド達は村の奥の宿へとゆっくりと馬を進めた。
物珍しそうに辺りを見回すカシミルドにテツが村の説明をする。
「村、という割には賑わっているだろう? 宿が多いのは理由があるんだ。この辺りのは炎の大精霊、火竜サラマンドラの聖地。その恩恵を受け、火山が多く、地熱によって温められた水が涌き出ているんだ。それが温泉と呼ばれ、大層人気なのだよ」
「温泉……美味しいんですか?」
テツが背中で口元を押さえて笑っている。ラルムがそれを見て眼鏡を光らせ温泉について語り始めた。
「カシミルド君。温泉は食べ物ではありませんよ。お風呂のことです。そして……ここの温泉は素晴らしいんです! 稀代の英雄ヒュンデルク=ソルシエール様が愛用したとされ、ここ温泉に浸かれば勝負事では負け知らず! 必勝祈願に恋愛祈願、そして美容にも良いとあって、兎に角凄いんです!」
ラルムの熱量に押され気味のカシミルド。苦笑いしつつ、温泉といものに少し興味が湧いた。
「ラルムさん。詳しいんですね。少し楽しみです」
「私、エテの出身なので、この辺りの事は詳しいですよ」
「そうなんだ。じゃあ、里帰りなんですね」
「はい。エテではフォンテーヌの屋敷に泊まると思います。父にカシミルド君を紹介しますからね」
「はい……」
一体どんな紹介をするつもりか気が気でないが、そうこうしているうちに宿へと着いた。レオナールは一人腕を組み、神妙な面持ちでレーゼの後ろに隠れて周囲の様子に目を光らせていた。
そんなレオナールに、テツは二言三言告げると、村の中へ消えていった。レオナールは視線を落とし不満げに俯いている。多分耳と尻尾があったら項垂れているだろう。
「テツ様は用事がありますので、皆は各々部屋で休むように。カシミルドは後で私の部屋に来なさい」
「はい」
この後は皆レーゼの指示に従って部屋へと移動した。
レーゼはレオナールと一緒に部屋へと向かって行く。勿論カシミルドはシエルと同室なのだが、部屋へ向かう途中でシエルはカシミルドの肩を小突き、レオナールに視線を流すと話を振ってきた。
「なあ。あの餓鬼、何処まで着いて来る気だ? 何か聞いてるか?」
「さ、さぁ? エテとか言ってたかな?」
カシミルドは曖昧に誤魔化そうとした。シエルとラルムには、レオナールの素性は秘密だからだ。只でさえ情緒不安定なレオナールへの配慮だ。
しかしシエルは割りと洞察力がある。カシミルドの嘘など気付いている様だ。カシミルドの顔色を伺うと、溜め息をついて目を細めた。
「はぁ。分かりやすっ。面倒事は御免だからな。ーーまたオークションに出されそうになった子供とかか? それとも……魔獣……とか?」
「れっ……レーゼさんに呼ばれてるから行くね!!」
カシミルドは荷物だけ置くと、慌てて部屋から飛び出して行った。シエルはそれを無言で見送った。しかし、カシミルドは分かりやすい。そして方向音痴だ。
「……おーい。レーゼさんの部屋、反対だぞー」
「えっ? ありがとうっ」
カシミルドは向きを百八十度変え、反対へと走っていった。
「……あの反応だと……どっちだ? 魔獣……か?」
シエルはボソッと呟いた。