第五十五話 天使の依代?
カンナとカシミルドは、二人手を取り合ったまま向かい合って寝転んでいた。王都を出てから、カシミルドとこんなに近くで過ごすことは無かったので、カンナは気恥ずかしく眠れずにいた。
二人の間にはメイ子がスースーと、寝息をたててぐっすり眠っている。カシミルドは瞳を閉じているが、眉間にシワを寄せ、触れ合った手には力がこもったままで、まだ起きているようだ。シレーヌの声が聞こえているのだろうか。
「カシィ君。眠れないの?」
「……うん」
「シレーヌさんの声……まだ聞こえるの?」
カシミルドはゆっくりと瞳を開きカンナを見つめた。
その瞳は不安に満ちている。
「……僕が……ヴァベルの……命の天使、ヴァベルの依代だって……シレーヌが言ってた」
「依代って何だろう? ヴァベル? ヴァベル……何処かで聞いた名前……」
「カンナ、知ってるの?」
「あ……でも。天使? バベルの塔とは関係ないかな?」
「バベルの塔? あー……百年くらい前に、バベルって人が塔を建てて、天使のいる天界を目指そうとしたって逸話だっけ?」
「うん。でもその話、里でしか聞いたことないんだよね。王都では知られてない話だったよ。ヴァベルが天使の名前なら……違うかな?」
「うーん……どうかな……」
カシミルドはまた瞳を閉じて何かに集中しているようだった。シレーヌの声が聞こえているのかも知れない。
カシミルドはさっきよりも暗い表情になり、口を開いた。
「えっと……そのヴァベルって天使は、三百年前に人間を呪おうとした天使みたい。それで……その時天使が自分の魂に植え付けた呪いの種子の欠片が……僕の中にあるって……」
「なっ何でカシィ君に?」
カシミルドはゆっくり首を横に振った。
「でも、思い出したんだ。テツさんの部屋でシレーヌが語りかけてきた……あの時、シレーヌは僕の中の誰かの意思に話しかけているみたいだったんだ……それがヴァベルかもって……あの男の人の声……多分地下でも聞いた気がする」
「男の人の声? ヴァベルの……意思? その呪いの種子って……」
カンナは不安になり体を起こした。カシミルドは何処か虚ろな瞳でそのまま寝転んだまま話を続ける。
「呪いの種子は、その天使の魂を糧に芽吹くって。でもそれが僕にあるってことは……僕の魂を糧にするってこと、なのかな?……でも魔獣の討伐って聞いた時。胸がすごく苦しかった……そうだ。地下オークションの事を知った時も、同じような感覚だったな」
「えっ……待って。それって……カシィ君はどうなっちゃうの? その……もしも人と魔獣が争うことになったら……?」
「……」
カシミルドは瞳をキュッと閉じ、胸の辺りを抑えた。カシミルドの手が微かに震えていることにカンナは気付いた。
「カシィ君……苦しい……の?」
「ううん。今は大丈夫……そうだ。胸の辺りにアザがあったんだ。ユメアが見つけて……」
「ユメアさんが?」
どうやって胸のアザを見つけることが出来たのだ?
カンナはふと疑問に思ったが、カシミルドの辛そうな顔を見ると、疑問はすぐに薄れていった。
「うん。着替えの時に……黒い焦げ後みたいな……」
「み、見せてっ」
カンナはカシミルドが頷くと、シャツを捲り上げた。
しかし、カシミルドの白い肌にアザなど見当たらなかった。
「無いなぁ? どの辺?」
「あれ? 本当だ。無いね」
カシミルドも体を起こして胸の辺りを調べるがアザは無かった。確かに城ではあった筈なのに。カシミルドは首を傾げながら、シャツを戻し、ため息を漏らして肩を竦めた。
「カシィ君。何か変だなって思ったら、すぐに話してね。苦しい時も、悲しい時も、辛い時も……勿論、嬉しい時も……カシィ君が助けてくれたみたいに、私も……」
カシミルドはカンナの肩にもたれかかって顔を埋めた。
「ありがとう……カンナ」
カンナはカシミルドをそっと抱きしめた。
小さい頃から、カシミルドはカンナの心の一番近くに存在した。
何処か抜けていて、危なげで儚げな優しい男の子。
弟みたいな頼りないところもあって、守りたくなる男の子。
でも、ちょっと目を離すと、カンナの手の届かない世界へ行ってしまいそうな、不思議な力を秘めた男の子。
カシミルドの力は、その天使の呪いの種子のせいなのだろうか。私はどうしたら、カシィ君を守れるのだろうか。
テントの入り口でシレーヌはそっと中を覗いていた。カンナと一緒なら、カシミルドは大丈夫そうだと、息を吐いた。ルイと会えて、ついお喋りが過ぎてしまったと反省しながら。
「シレーヌちゃん? 何してんの……って。あー。いちゃいちゃタイムか……」
クロゥはシレーヌの視線の先を確認すると、おどけたように声を漏らした。
「クロゥ様。その言い方は如何なものでしょうか? 誰にでも誰かに寄り添って欲しい時がありますでしょう?」
「……うん。あるな! 分かるけどさ~。ーーシレーヌちゃんも、寄り添って欲しい人がいるって訳? 例えば~魔法の使えない王子様とか?」
クロゥは悪戯な瞳でシレーヌの顔を横目で見た。その視線にシレーヌは顔を赤く染めて恥ずかしそうに答える。
「!? 聞いてましたの?」
「ああ。聞いてたぜ。ちょっと気になったんだけどさ……魔獣には分かるのか? 天使の気配が」
「えっと……人や精霊使いの気配と違う……と言うことは分かりますが。天使様とはあまりお会いしたことがないので断言は出来ませんわ」
「成る程。まあ。そうだよな。ーーそれで……シレーヌちゃんはカシミルドから天使の……ヴァベルの力を感じたって事だよな?」
「そういうのって、クロゥ様の方が感知出来るのではないですか? それと、クロゥ様はヴァベル様と、どの様なご関係なのですか?」
「……ケケケッ……秘密。でも、呪いの種子は発動させねぇから。人と魔獣の争いには加われねぇけどさ。シレーヌちゃん。呪いの種子、発動させる気……あったりする?」
「えっ? いいえっ……」
シレーヌは慌てて否定したものの、自身の返答に迷いがあった。シレーヌは呪いの種子の存在に気付いた時、発動してしまえばいいと思っていたからだ。
人間なんて、全て消えてしまえばいいと……思っていた。
でも、テツも人間。
彼が存在すると分かって、迷いが生まれた。
自分勝手な気の迷いだということは分かっている。
同族を裏切るような考えだということも。
御主人様を軽視する考えだということも。
だって、呪いの種子を発動させるということは、カシミルドの死を意味するのだから。
「うわ~。何だよその微妙な返事。ルイって奴に会って、迷ってるんだろ? 城で話した時のシレーヌちゃん。もっと喧嘩腰だったもんな」
「あの時は失礼致しました。そして今宵も私がボーッとしてたので、御主人に危険が……」
「大丈夫だって。カシミルドは本番に強いタイプだと思うからな。後は俺がカシミルドとカンナちゃん見とくから、シレーヌは好きなとこ行っといで?」
「……では。魔獣界に帰らせていただきます。おやすみなさいませ」
シレーヌはそう冷たく言い放つと泡となって消えていった。
「やべっ。怒らせちまったか? まぁいつものシレーヌちゃんか……」
クロゥはそう呟くとテントの中を覗いた。
不安そうなカシミルドの背中を心配そうに擦るカンナ。
二人の顔がやけに近かった。
そしてルナールの少年を挟んだテントの隅で、スピラルがそれを気まずそうに眺めている。
これは子どもに見せるものではない。
クロゥはそう判断した。
そして、クロゥはテントの幕を勢いよく開け放つ。
冷えた夜風がテントの中に舞い込んだ。