第九話 春風は海を越えて
ミラルドの長い説法を聞き終わり、カシミルド達は漸く出発の時を迎える。クロゥはカシミルドの肩に乗り、メイ子はイカダに一番に乗り込んでいる。
シレーヌはというと、人間には会わないと言ってずっと隠れている。
しかしイカダのすぐ横に気配を感じるので大丈夫だろう。
「ちゃんと言いつけを守るのよ。それとメイ子ちゃんの事、守ってあげなさいね」
ミラルドも何か吹っ切れたような顔をして、清々しく送り出してくれるようだ。
やはりミラルドと話して良かったとカシミルドは思う。
メイ子のことばかり気にしていることに、心なしか寂しささえ覚えた。
「それじゃあ。いってきます。――そうだ、帰ったら空の飛び方教えてね」
「フフン。カシミルドには十年早いわ」
カシミルドと四歳しか違わないのに、ミラルドらしい高慢な返事に気が和む。
カシミルドはにっこりと笑顔でそれに答えた。
イカダを押して海へ向かう。
「あっ」
ミラルドが何か言いた気に声を漏らした。
カシミルドは聞こえなかった振りをして、一気にイカダを押して駆け出した。
もう振り返らない、そう決めていた。
しかし、――バチンッ。
見えない何かにぶつかり、イカダごと浜辺に弾き飛ばされた。
イカダはひっくり返り、メイ子は投げ出され砂に埋もれた。カシミルドは尻餅をついてその場にへたり込む。
「いって」
ミラルドの方を振り返ると、お腹を抱えうつむき顔を真っ赤にして笑っていた。
――そう、ミラルドの結界は二重に張られていたのだ。
「ケケケッ。ムカつく女。だから黒の一族の女は嫌いなんだよ」
クロゥも気づいていなかったようだ。
ミラルドはやっぱりすごいんだ。カシミルドは姉を誇らしく思った。
ミラルドが何か呪文を唱えると、結界がゆらりと揺らめいたように光る。
「もう弾かれないから。いっておいで」
「うん。いってきます」
恐る恐る結界があるであろう場所に手を伸ばす。
ミラルドの魔力を感じるが通してくれるようだ。
波打ち際にちょうど結界の境界線がある。
イカダが少しでも水に触れれば、後はシレーヌが運んでくれる。
カシミルドもイカダに乗り込んだ。
「約束。ちゃんと守るのよ」
カシミルドは笑顔でミラルドに手を振り返した。
結界の外に出る。外に出たとたん、
「ひゃぅーなのの!」
突風が吹き、イカダに付けた小さな帆は風を目一杯受けて勢いを増す。
潮風は生暖かく頬を撫で、風は優しく時に激しくまるで生きているかのようだ。
これが、外の世界。カシミルドは心を弾ませる。
「さっきの風、風の精霊さんの悪戯なのの。カチィたまは、この世界に歓迎されているなのの!」
メイ子が嬉しそうにイカダの上をぴょんぴょん跳ね回って話している。
見ているカシミルドは、海に落ちてしまわないか気が気ではない。
「このまま。姉たまのところまで、ゴーゴーなのの!」
「そうだね。行こう」
「ケケケッ」
カシミルド達の旅がやっと始まる。
希望と期待を胸に込めて、この精霊と魔法に溢れた世界へと帆を進めるのであった。
カシミルド達を迎えた突風は海を渡り、王国中を吹き廻る。
お昼時で賑わう食堂の看板をなびかせ、上空へとさらう。
食堂の窓から配膳係の少女が顔を出す。
「うわぁ。すごい風。春一番かな?」
「――きゃぁっ」
そして風は、薔薇の庭園で水をやる少女のスカートを翻し悲鳴を誘う。
少女の兄がスカートを必死で押さえようとしている。
そしてその様子を、白く高い塔の上から見下ろしている女性がいた。
銀色の長い髪の裕福そうな女性は、優雅に紅茶を飲みながら風で髪を揺らす。
この女性には風の精霊が見えているようだ。
「あらあら。ご機嫌なこと。……えっ? あらあら」
どうやら話もできるようだ。
「クスクス。……フフフ。オーホッホッホッホッ。レーゼっ」
「はい。お呼びでしょうか?」
女性の後ろに音もなく佇むレーゼと呼ばれた銀髪で背の高い部下に女性は艶かしく微笑みかける。
「んふふっ。彼を見つけたわ。彼の魔力が風とともに私を訪ねて来たの。八年ぶりかしら。やっと――フフフ。明日から、海岸を見張って」
「ですが。選定の儀の準備があります」
女性は紅茶を一口のみ、ため息をつく。
「そうね……。でもまだ時間があるから。フフフ。何でこんな面倒な地位についちゃったのかしら。――明日は見張りを命ずるわ。でも、見つけても手は出さないでね。彼は私のものだから」
「かしこまりました。リュミエ様」
カシミルドが乗ったイカダは風に煽られ、ミラルドの視界から一気に消え去っていく。
穏やかな海をミラルドはずっと見つめる。
「天使の祝福があらんことを」
もう見えないその背に、そっと祈りを捧げた。
昼間は蒼い宝石を散りばめたように輝いていた海が、夜になると暗い海の底のような深い紺青色をしている。
波は変わらず静かに揺れる。
イカダはシレーヌがずっと押してくれているので、航海は順調だ。
メイ子はいつの間にかぐっすり眠っていた。
カシミルドも今日は朝から色々あったせいか、瞼が重く感じる。
クロゥはカシミルドの様子に気づき優しく言う。
「今のうちに寝とけよ。俺様が二人とも海に落っこちねーか見といてやるから。今日はシレーヌがお前の魔力好きなだけ使っていたから疲れただろ?」
「うん。ありがと」
カシミルドは眠気が限界だった。
丁度白いフワフワの枕がある。温かい。
――カシミルドは波に揺られながら眠りについた。
真っ暗な闇の中に、何処からか声がする。
これは夢?
状況もよく分からないまま、カシミルドは暗闇の中をさ迷う。
自分の姿すら見えないが、ゆらゆらと身体が揺られている感覚だ。
そうかここは海の上だった。
「――たい。――けて」
足元から……いや、後ろから?
海の底の方から小さな声がする。
「――だの?どう――て。いき――」
「あのひ――。あ――たい。し――くな――」
誰の声だろう。
言葉が無数に重なって何人、何十人の声が、海の底から這い上がってくるようだ。
皆、深い苦しみと悲しみに嘆くような声でお互い反響し合い、ぶつかり、そして折り重なり、声はどんどん大きく響く。
「たすけ――。くる――」
「くら――。――いよ」
「しに――ないよ」
身体が重い。
海の底に引きずり込まれるようだ。
声に取り囲まれ身動きがとれなくなる。
暗闇の中、カシミルドは必死に抵抗する。
しかし身体がというより、意識が……悲痛な声達の中に飲み込まれていく。
苦しい、このまま身を委ねてしまえば楽になれる――。
そう思った時、遠くに小さな光が見えた。
光は段々と大きくなりカシミルドを照らす。
「声に縛られては駄目よ。さあ。起きて――」
「……たま!!カチィたま!!」
メイ子の声にハッと目を見開く。
空には数え切れないほどの星が瞬き、優しく僕らを照らしていた。
「カチィたま。うなされてまちたなのの」
「メイ子……」
カシミルドはなんとか声を絞り出す。
身体中汗だくだ。メイ子が起こしてくれたようだ。
しかしメイ子ではない、もっと大人の女性の声がしたような……。
思い出そうとすると、夢の中で聞こえた悲壮な声がまた聞こえてくる。
先程より小さく遠いが、耳にまとわりつくように確かに聞こえる。
この海の底から。
もしイカダから落ちたりしたらと……考えただけでゾッとした。
そういえば、イカダから落ちないように見張りをすると言っていた筈のクロゥの姿がない。
「――あれ? クロゥは?」
「クロゥたまは、もうすぐ着くからって、岸の方を見に行ったなのの」
「そっか。もう着くのか。メイ子は……」
メイ子の様子からしてこの声は聞こえていないようだ。
聞こうかと思ったが怖がらせるだけだと思い留まる。
その時シレーヌが海から顔を出した。
「御主人様。この辺りは特に海が深くなっておりますわ。少し危険な場所ですので、スピードを上げますね。しっかりお掴まりください」
「シレーヌ。危険って? 聞こえているの?」
「聞こえている? 何がですの? でもこの場所には良くないものを感じますわ。気枯れ……とでも言いますでしょうか」
「気枯れ?」
カシミルドには聞いたことのない言葉だ。
「確か、人間は穢れ。と言っていたような……。私もよくわかりませんわ。さぁ、急ぎますので、お捕まり下さい」
そう言うと同時にイカダがグッと推進力を増す。
湿った空気を切り裂き、イカダはどんどん加速する。
メイ子が歓喜の声を上げる。
「むっふぅ。気持ちいいなのの!!」
遠くに見えていた岸がどんどん近づいてくる。
それと相反して、あの声は遠くなりやがて聞こえなくなった。
朝陽に港が照らされ、露店や小さな船そして街が見える。
やはり王都は大きい。
港にも店が何十軒も建ち並び、朝早くにも関わらず人がチラチラと見えた。
しかしイカダは港の方には行かず、港からもっと東の方に、崖に囲まれた小さな入り江の方へと進んでいく。
目を凝らして見ると、こちらに大きく手を振るクロゥが人の姿で立っていた。
「カチィたま。クロゥたまがいるなの。あっちに行くなの!」
カシミルドは港の方を名残惜しそうに見つめたが、イカダの進む方へと渋々身を委ねた。
クロゥと合流し、言われるがままイカダを滝の裏側にある洞窟に隠す。
クロゥ曰く、滝の横にある緩めの傾斜の崖から町外れの丘に上がれるらしいが、
「港からじゃダメなの? 行ってみたかったのに」
それに目の前の崖……カシミルドは昔崖から落ちてから、一度も登っても降りてもいない。
姉からの崖禁止令はもう時効だろうか?
出来れば避けたい道のりだ。
「こっちの方が絶対いいって。なんか港にこわーい顔した兄ちゃんがいてさ。ケケケッ」
「何だよそれ?港の警備兵かな?――そういや王都って勝手に入っていいの?」
一般常識はかなり疎いカシミルドだ。
メイ子はよく分かっていない上に興味もない様子で、滝の水を浴びて遊んでいる。
クロゥはこういった情報にカシミルドよりは精通しているようだ。
「んー。確か第四王区と第三王区は旅人でも何でも歓迎されたと思うぞ。塀も無ければ審査もない。ただ船を停泊させるには金がかかるぜ。俺らが乗ってきたのはイカダだけどな」
イカダはここに隠しておくのは良案だな、とカシミルドは納得する。
ここから街に入るにはこの崖しかないか……不満ではあるが。
「むむぅ? クロゥたま。メイ子はお城に行きたいなのの。お城は行けるなのの?」
「よくは知らないが……頑張れば行けるんじゃねぇか。普通には行けないだろうが」
クロゥの言葉にメイ子は愕然とする。
水を滴らせながら岩の上に倒れ込み落胆した。
「どぉぉぉぉするなののぉ……」
「まずは王都に詳しい人に話を聞こうよ。叔母さん夫婦が第四王区に住んでいるんだ。でも、第四王区はどこだろう?」
カシミルドはメイ子を宥めながら言った。
するとクロゥがポンっと手を叩いて滝を見上げる。
「それなら知っているぜ。この滝は山頂から流れている川でな、川の東側が第四王区、西の港街側が第三王区だぞ。川の橋に看板があった。さっき上で見てきたぜ」
「さすがクロゥ」
カシミルドが褒めると満更でもない様子のクロゥ。
「じゃ。登ろうぜ! 崖っ」
と言って黒鳥に変化した。
メイ子もやる気を取り戻したのか、いつの間にか崖を上がっている。
「早く来るなのの!」
崖登りは避けられないようだ。
カシミルドが崖を見上げて怪訝な顔をしていると、海の方から疲れ果てたシレーヌの声がした。
「あぁ。私もう限界ですわ。一旦魔獣界に帰りますぅ。また何かあったら呼んで下さいませ。ごきげんよ……」
シレーヌは全て言い切るよりも前に泡となって消えてしまった。
カシミルドはすっかり忘れていたが、シレーヌは夜通しイカダを押してくれていたのだ。
無理をさせてしまった。海に向かって、
「ありがとう。シレーヌ、ゆっくり休んでね」
とだけ言い残し崖に向き直る。
さほどキツい傾斜では無いにしろ、二十~三十メートルはあるだろう。
「カチィたまー。遅いなののー!」
メイ子もクロゥも崖をスイスイと飛びながら上がっていく。
ズルい。カシミルドは徒歩なのに。
自分も空が飛べたらな、と思いつつ崖を登り始めた。




